第28話

 エラがこれまで、どんな環境でどんな人生を歩んだのか知っても、タイセイがエラに感じる美のオーラはなにも変わらなかった。エラの話で、彼女が今は独り身であることを知った。そのことで、なぜか嬉しくなっている自分を感じたが、そんな気分になるのも不謹慎だと自分に言い聞かせ、彼はせわしなくグラスを取って口に運ぶ。


「ところで…タイセイは公園で、私の目を治してくれたでしょ」

「いや、治すって程じゃないけど…」

「いつも、あんな病院で使うようなお薬とかガーゼとか持って歩くの」

「まあね…僕と同じ目のドクターである母から、うるさく言われてね…」

「へぇ…立派なお母さん。ならば、お母さんのお陰でわたしは助かったのね」

「患者さんにとっては立派かも知れないけど…」

「おやおや…また、お母さんをけなすのですか」


 もう同じ失敗はしたくない。今度は失言しまいと彼は口をつぐんだ。


「タイセイは困ったときは、いつもそんな顔をするんですね」

「顔って?」

「口をとがらせて…頬を膨らませて…」


 そんなことは誰にも言われたことがない。自分にそんな癖があったのかと驚いたが、たった12時間ではあるが、癖を指摘するほど自分に関心を持っていてくれていたのかと嬉しくもあった。


「人を愛そうとしない人は、愛されていることにも気づかないものですよ」


 いきなりのエラの言葉は、タイセイの胸にグサッと刺さった。

 タイセイだって女性を好きになったことはある。ただ、あらためてその女性を『愛していたのか』と問われると、胸を張ってそうだと言える自信もない。


「まってよ。僕だって恋愛経験ぐらいあるよ」

「そうですか…言い過ぎたわ。ごめんなさいね」


 しかし、エラはなんとなくわかるきがした。この人は本当に人を愛することに臆病で、それができなかったのだろう。だから…自分が母から愛されていることもわからないのだと…。


 いきなりエラのスマートフォンのアラームが鳴った。


「いけない」


 あわててスケッチブックを抱えて立ち上がるエラ。


「いきなり、どうしたの」

「終電の時間だわ」


 タイセイが腕時計を見ると、カシオの表示は深夜の0時30分を表示していた。


「遅くまで付き合わせてしまってごめん。タクシーで送っていくよ」


 いや、いつまでもタイセイと一緒に居たくて、帰ると言い出さなかったのは自分だ。できるなら、このまま夜明けを見るのも厭わなかったが、実際これ以上彼と一緒に居たら、自分にかけられた魔法が呪いとなって、自分を一生苦しめるにきまっている。


「そんなことまでしなくていいの」


 エラは、彼の引力から逃れるようにルーフトップバーを出て、地下鉄へ向けて急いだ。タイセイも慌てて後を追う。

 香港MTR(Mass Transit Railway)尖沙咀駅。エラは、地下へ降りる階段の前で立ち止まると、タイセイを振り返った。


「ドクター…ドクターに抱きついてしまった謎は、いまだに不明ですけど…目を治してもらってから今日一日、私に魔法をかけてくれてありがとうございます。本当に楽しかったです。今日のことは一生忘れません」


 打って変わったエラのよそよそしい口調に、タイセイは寂しさを感じた。しかし、彼も自分の日常を取り戻そうとするかのように、エラの眼帯を取り目を診察して言った。


「もう眼帯を取っていいですよ。最初は焦点が合わせづらいかもしれないですけど、そのうちはっきり見えるようになりますから…」


 エラは笑顔でうなずいたが、眼帯を取った瞳は、少し潤んでいるようだった。


「おとぎ話では、魔法は魔法をかけた人しか解けないって…知っていました?」

「…どういうことかな」

「私に別れの呪文を言ってください。そうすれば、いやがおうでも魔法が解けて、もとの世界に戻れますから」


 そう言うエラの真剣な瞳に、タイセイの胸は締め付けられた。

 しばらくして、彼の口から絞り出すように声が漏れた。


「さようなら…エラ…元気で」


 彼女は、微笑みとも苦痛とも思えるような表情を浮かべると、片手を挙げて小さく振る。


「さようなら…ドクター…」


 エラはタイセイに背を向けると、湖に身を投げるように階段を駆け下りていった。


 こうして香港のシンデレラは、地下鉄の闇の中に消えたのだった。おとぎ話では、この後彼女が階段に残したガラスの靴を手掛かりに、王子が探しに行くのだが、香港のシンデレラは地下鉄の階段に、何か証拠を残すようなことはしなかった。

 だが本当に定められた男と女というものは、そんなものがなくてもまた巡りあう運命なのである。

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