第25話

 メイドとして働くエラには、テーブルワークはお手の物だ。しかし、今の彼女の指先からは、普段の仕事を超えた、言うに言われぬ女性の美と気品が感じられた。それは、いくらパリのプレタポルテに身を包んだからと言って得られるものではないだろうに。

 タイセイはそんなものを感じるのは、老舗ホテルの歴史が作り出した魔界さながらの環境で、たっぷり妖気に浸かってしまった影響だろうと勝手に解釈していた。

 ここは、1928年12月11日の開業以来、90年の永い間、数々の人生の喜怒哀楽の舞台となった、ザ・ペニンシュラ香港のロビーなのだから…。


「ティーカップに紅茶を入れることが、そんなに珍しいのですか?」


 自分を見つめるタイセイの視線に、照れたエラが言った。


「あっ、いや…エラがさ…妙にこのホテルに馴染んでいるなって思って…」

「そんなことありませんよ」

「いや、そうして背筋を伸ばしてサーブしている姿なんて、まんまこのホテルを長年贔屓にしている宿泊客だよ」

「冗談でしょ」


 エラは照れくさそうに、額に落ちてきた髪を、その細い指で耳の裏にすき上げる。


「タイセイが私に魔法をかけてくれなければ、こんなホテルには入れませんよ。実は…今日初めてこのホテルの門をくぐったのです。さっきから、心は落ち着かなくてドキドキです」

「そうか…なら、記念なんだから、ヘアやメイクにも手を加えたらよかったかもしれないね」


 エラはサーブの手を止めて、真顔でタイセイに訴える。


「私にこれ以上の魔法はかけないでください。魔法に頼って美しくなった王女は、魔法が解けた時には決まってお婆さんになってしまうって…だいたいおとぎ話しはそういう結末でしょ…私、ホテルを出る時が怖いです」


 胸に手をあてて祈り始めたエラの純真さに、タイセイも自然と顔がほころぶ。


「はは、…大丈夫だよ。魔法を使わなくても、エラは十分美しいよ」


 エラの胸が小さくキュンと鳴った。『今、私を美しいって言ったの?』彼女は顔が赤く上気するのを誤魔化すために、いそいそとお茶のサーブを再開した。


 一方、タイセイは自分の口から出た言葉に驚いていた。こんな歯が浮くようなセリフを女性に吐いたのは初めてだ。彼は驚きと後悔に目を伏せて、ティーカップを口に運ぶ。

二人の間に気まずい沈黙が流れた。我慢できずに、今度はエラが口を開いた。


「タイセイは、女性に魔法をかけるのが得意なのですか?」

「いや…女性からそんなこと言われたのは初めてだよ。女性の気持ちが全くわからない唐変木だとはよく言われるけどね…」


 エラは、すねた小さな子どもを見る優しい目で、彼を見つめて言った。


「そうね…確かにタイセイは女性の気持ちが本当にわからない唐変木ね…」

「えっ?なんかエラの気分を害するようなこと言ったかな?」


 しかし、エラの口からは答えの言葉は出てこなかった。

いつの時代も、女性にとって魔法とは、ときめきの世界へ導く入口なのだ。魔法にかけられた女性は、そこで出会う人やモノに心を躍らせ、どうして平静でいられようか。案の定、エラは目の前の男にも、ときめきを感じ始めている自分が怖かった。本来明日いなくなるような男が、女性に魔法をかけるべきではなかったのだ。

 心に重い施錠をかけながら、エラはせっせとタイセイのカップに紅茶を注いだ。沈黙する彼女に戸惑い、彼は周りを見渡しながら話題を変えることにした。


「まいったな。エラに比べて、このホテルに自分こそふさわしくないような気がしてきたよ」

「なぜ」

「自分の服装やしぐさに、エラのような優雅さがみじんも感じられないから…」

「そんなことないですよ」

「いや、このジャケットだって地味でくたびれているし…」


 確かにタイセイは、今まで自分の外見など気にするタイプの男ではなかった。なのになぜエラを前にして、いまさら自分の身なりが気になるのだろうか。それは今まで味わったことのない羞恥なのだ。


「では、今度は私が魔法をかけてあげます」


 エラはスケッチブックから、まだ描いていない真っ白な紙を引きちぎると、器用に折りたたみ、タイセイの胸ポケットに差し込んだ。


「これで、タイセイはエリザベス王女の前に出てもおかしくない、紳士になったわ」


チーフに見立てて、エラが差し込んだ紙の白が、確かにタイセイのジャケットのモスグリーンを鮮やかに際立てる。


「ティーをご一緒できるなんて、光栄でございます。女王様」


顔に満面の笑みを広げながら、大業なしぐさで礼をするタイセイ。なんてかわいい笑顔なの…。心にかけた施錠が砕けそうになったエラは、あわてて視線をそらす。礼を返すのも忘れてせわしくティーカップを口に運ぶ作業を続けた。

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