第22話

「ところが…ドクター・コウケツ」

「ちょっと待ったエラ。もう友達なのだから、君も僕をタイセイって呼んでくださいよ」


 社会的地位の高いドクター相手に、そんな呼び方していいのか、躊躇するエラであったが、話したい欲求が勝ったのであろう、彼女は言葉をつづけた。


「実はタイセイ…今朝…そのマリア様に出会えた気がしたんです」

「どこで」

「中環(セントラル)で…」

「それで?」

「はい…マリア様だと思って思わず抱きついたら…タイセイでした…」

「ちょっと待ってよ。マリア様って女性だろ。僕は男だよ」

「ええ…よく考えればその通りなのですが…」

「同じ眼科医だから、錯覚したんだよ」

「いえ、いくら錯覚したといっても、男と女の区別くらいつきます。とにかくタイセイの姿が目に映った瞬間、頭で考える暇もなく体が動いちゃって」

「ああ…それで、あの網膜記憶の話しに飛びついたんだ」

「ええ…」

「なるほどね…そういうことですか…」


 自分がエラのマリア様に思えた理由が知りたいから、後を付けてきたのか…。自分の男性的な魅力をわずかながら意識していた彼のプライドが、少しばかり擦りむけてヒリついた感じがした。


 そんな気持ちから出たのか、彼の小さなため息をエラは聞き逃さなかった。自分は何かまずいことを言ってしまったのであろうか。彼の横顔を心配そうに伺うエラ。

 やがて、タイセイも自分が不可解な振る舞いをしていることに気が付いた。そうだ、エラが自分についてきた理由を聞いて、なんで気落ちする必要があるのだろうか。別な理由を期待していたのであろうか。


「それで?」


 タイセイも気を取り直して、笑顔でエラに問いかける。


「それで、なぞは解けましたか?」

「いえ…なぞは深まるばかりです…」


 エラは力なく視線を落とす。

 タイセイはエラのスケッチブックを取とると、やおら立ち上がった。


「エラ、そんなことはもうどうでもいいじゃないですか」


 タイセイの鼻息の荒さに驚くエラに構うことなく、彼は言葉を続ける。


「…さあ、もっとたくさん美しいもの、楽しいものを見に行こうよ。そしてスケッチブックをいっぱいにしましょう」


 タイセイは彼女の手を引いて、教会を飛び出していった。



〈九龍城砦〉


 調査が始まってから、2時間。

 手持無沙汰になっていたモエは、小松鼠にあやとりを教えていると、あの男が現れた。男は、ドラゴンヘッドの耳元でなにやらつぶやくと、ドラゴンヘッドは小さくうなずく。

 調査の進展があったのか。モエは固唾をのんでドラゴンヘッドの言葉を待った。


「10日前…確かにあんたの息子は香港の市内観光をしていたようだな」

「なっ、なにかわかったの」


 せき込むモエを押しとどめて、ドラゴンヘッドが言葉をつづける。


「中環(セントラル)駅の広場で、あんたの息子を見たものがいる」

「それで…」

「德輔道中を西へ移動して、荷李活道(ハリウッドロード) の店で時計を買ったらしい」

「それから…」

「PMQのレストランで食事をして…どうも、街歩きを楽しんでいたようだな」

「ああ…あの子、小さい時から、ひとりで街をぶらぶらするのが好きだったから…」

「だが…ひとりじゃなかったらしい」

「えっ、どういうこと」

「連れがいた」

「一緒に学会に参加した仲間かしら」

「あんたの息子は結婚しているのか?」

「一度結婚はしたことはあるけど、虫の好かない嫁でね…すぐ離婚したわ。あの子が私にした唯一の親孝行ね。で…なんで?」

「連れは女性らしい」

「あら、誰か日本から連れてきたのかしら…付き合っている女(ひと)はいなかったと思うけど…」

「日本人じゃない」

「まあなんてことでしょう… 海外で女遊びするような子じゃないんだけど…それからどうなったの、行った場所わかったの?」

「そう慌てるな」

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