第20話

 タイセイは学生時代から、理系一筋で育ってきた男だ。一般教養としての美術史とそれぞれの時代にちらばる代表的な作品と作者は知識として知ってはいたが、実際に作品を前にしてその芸術性を見分ける目や耳があるはずはなかった。しかし、エラのスケッチブックに描かれた絵に、彼は少なからぬ興味を覚えた。

 それは、一ページに一つの風景や作品が描かれているのではなく、エラの目に映ったものやことが、まるで切り取られた写真のコラージュのように、ページ一杯に散らばっているのだ。

 スケッチブックに見入るタイセイを黙って許していたエラだったが、ついに恥ずかしさに耐え切れず言い訳っぽく口を開く。


「目に映ったものを、ただ描きちらしているだけですから…」


 タイセイは、エラの作品から顔をあげると、目を輝かせて彼女に話し始めた。


「パッチワークってあるでしょ」

「パッチワーク?」

「ええ、使い古しの布を集めて、縫い合わせるやつです」

「それが…?」

「縫い合わせた布の柄は、それぞれまったく関連性はないのだけれど、出来上がってみると、それでひとつのアート作品になっている…そんな、絵ですよね」


 タイセイはあらためてスケッチブックの絵に見入りながら言った。


「ぼくは絵のことはよくわからないのですが…なんか凄くいいような…そんな、評しか言えない自分が情けないのですが…」

「そんなに見ないでください…恥ずかしいです…」

「今更ながら…さっきエラをアーティストだって紹介したことに、間違いはなかったと安心しました」


 エラはついに恥ずかしさに耐え切れずスケッチブックをタイセイから奪い返した。


「いえそんな…私は出稼ぎのメイド、アーティストってわけじゃないですよ」


 照れくさいのか、早足になったエラを、笑いながら追うタイセイ。やがて、ふたりは閑静な高級住宅街、ミッドレベル・セントラルに佇む白亜のカトリック教会にたどり着いた。


 エラは無言で胸の前でクロスを切り、膝を曲げてこうべを垂れた。敬虔なクリスチャンであるフィリピーナであるからこその、自然なしぐさであった。


「ちょっと入ってみましょうか」


 タイセイが気軽にエラを誘った。


 そこは、天主教聖母無原罪主教座堂(Cathedral of the Immaculate Conception)。長さ83メートル、幅40メートル。白く輝くゴシック・リヴァイヴァル建築のその教会は、最大千名を収容できる大聖堂である。

 ゴシックの特徴的な柱に支えられた高い天井。その天井窓から差し込む光は、間接光となってやわらかく室内や祭壇を浮き上がらせる。派手なステンドグラスなどなく、室内に溢れる光があくまでも白いことが、この空間の荘厳さを際立たせている。

 アジアと言えども、長年キリスト教文化の国に統治された香港の教会である。さすがにその空間には、歴史的な重みがあるとタイセイは感じていた。


 エラが祭壇の前のイスにひざまずくと祈り始めた。

 クリスチャンでもないタイセイは、隣のイスに座って、手持無沙汰にそんなエラの姿を眺めていた。

 ようやく長い祈りを終えたエラに、タイセイは話しかけた。


「ひとつ聞いてもいいいかな…」

「なんです」

「そのスケッチブックに描かれている絵の中で…」

「また絵の話しですか」

「いや…気になったことがあって…」


タイセイがエラのスケッチブックに視線を送った。


「同じような人物が何回も出てくるんだけど…誰?シルエットから察するに、多分女性だと思うんだけど…」

「ああ、この絵ですね…これは私のマリア様ですよ」


 エラはタイセイの問いに答えるのに重ねて、祭壇上のイエス・キリストを見上げた。


「でも…なんで顔がぼやけているの?」


 繰り返されるタイセイの問いに、答えていいかどうか戸惑っていたエラだったが、覚悟を決めたのかゆっくりと語り始めた。

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