第15話

「纐纈先生が研究されている『網膜神経を形成するマイクロRNA群』についてなんですが…」


 いきなり、早口で語り始める梁裕龍先生。


「そのマイクロRNAの一種 『miR-124a』が、脳や網膜といった神経回路の形成と神経細胞の生存に、非常に重要なものであるとおっしゃっていましたよね」

「ええ、具体的には、脳では『記憶』に重要な海馬の神経回路形成に、そして網膜では『視力と色覚』を司る神経細胞に、大きくかかわっているのではないかと考えています」

「人は網膜に映ったものを、大脳で解析して、その記憶を海馬に蓄積する。それを可能にする神経の形成に『miR-124a』は深くかかわっているということですね」

「そうです…実はそればかりではなく、それが私がメインで研究している『網膜再生』にむけたゲノム編集に、とても有効に作用するのではないかと考えています」


 エラは早口で語り合う二人を交互に見ながら、梁裕龍先生の同席を断るべきだったかもしれないと後悔しはじめた。


 ふたりの会話に出てくる古代文明の呪文のような単語の羅列は、エラを船酔いに似た気分にさせた。だが、出来るだけ寛容な笑みを口に浮かべておとなしく聞いていた。

 一方でエラが今にも吐きそうな気分でいることは、タイセイも察していた。こんなつまらない話しで申し訳ないと思うのだが、梁裕龍先生に同席を了解してしまった以上、話をやめて帰れとも言えない。

 彼はエラが心配になって、梁裕龍先生が話している最中でも、ちらちら彼女を見て気遣った。


「確かに…神経形成における『miR-124a』の役割の探求は、非常に興味深い研究であると思いますが…一方でそれが生み出すたんぱく質のことについては、オーラルセッションではまったく触れておられなかったですね」


 タイセイは梁裕龍先生の言葉に意表を突かれて息を飲み込んだ。


「どうして…それをご存じなんですか?」

「いや…論文でちょっと目にした気がして…」


 もう、エラを気遣う余裕を失っていた。タイセイはそのたんぱく質のことは研究室の同僚にも話していないし、論文にも一切書いていない。偶然に発見したたんぱく質だから、彼以外このことを知っている人間はいないはずなのだが。


「私はそのたんぱく質についても、大変興味がありましてね。セッションでお聞きできるかと期待しておりました」

「その…たんぱく質については…まだ研究としては不十分で、学術発表には値しませんよ」


 彼の抑制的な発言にも関わらず、梁裕龍先生は多少押しつけがましくタイセイに迫る。


「いや、すでに纐纈先生はそのたんぱく質の存在と機能を確認されているのでしょう?」


 タイセイは押し黙ったまま何の返答も返さなかった。しかし、梁裕龍先生は少し動揺している彼の表情を見て、自分が正しいことを確信し一方的に話し始める。


「『miR-124a』が発生するたんぱく質の発見は、今世紀最大の医学的発見であると言えませんか?…なぜなら、視覚認識から記憶のプロセスを解明する重要なカギとなるたんぱく質を発見されたのですから」

「いや…だから、過大評価していただいても…」

「いやいや、過大評価とは思いません…纐纈先生が仮説を立てられた視覚認識のプロセスはこういうことですよね。網膜にものを映すと、その神経細胞を形成する『miR-124a』が特殊なたんぱく質を発生する。そのたんぱく質を、神経細胞にある、translator(トランスレーター)が電気に翻訳して脳に伝え、大脳が解析するとともに、電気的なデータとして海馬に蓄積する」


 タイセイが落ち着かない様子で頭を掻き始めた。

 話の内容がわからぬエラではあるが、今度はエラがタイセイを心配し始めた。彼は明らかにイラつている。その原因が、梁裕龍先生の雄弁さであることは容易に理解できた。


 しかし、梁裕龍先生はそんなタイセイの様子にもお構いなしにしゃべり続ける。


「…そして、この仮説は、実は人類に歴史的変革をもたらすことになる…それは、記憶は電気的データだから、人が死んで生体機能を停止すると、つまり電気が切れたら海馬からすべてのデータは消えてしまう。しかし、たんぱく質は有機物ですから、死後も網膜に残る。別な言い方をすれば、今まで存在していないといわれていた『網膜記憶』が、実はたんぱく質という形で存在していた。そして、それを解析すれば、死後であっても目に映った記憶を復元することができる…」


 そう、だからこそタイセイはこのたんぱく質の発見と研究に疑問を抱いていた。

 死んだ人の目に映ったものを復元して、なんの有益なことがあるのか。たとえそれが、殺人事件の犯人探しであろうと、死後に個人の記憶を、ここまでだったら垣間見ていいという倫理的ボーダーラインは、いったい誰が決められるのか。

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