第16話

 どんな目的があろうと、個人の視覚的記憶は死後に他人に確認されるべきではない。幸福であろうが、不幸であろうが、人生で蓄積された個人の記憶は、その人の死とともに消滅すべきである。タイセイはそう信じていた。


 恩義のある梁裕龍先生とはいえ、こう強引に話をすすめられては、そろそろ耐え難いところまで来ていた。そんなタイセイをエラが救った。


「梁先生。それって…当然生きている人にもいえますよね!」


 今度はエラが身を乗り出して梁裕龍先生に迫る。その迫力に、さすがの梁裕龍先生も話の腰を折られてしまった。


「どういうことですかな。ミス・エライザ」

「つまり…目が何かを覚えていて…その網膜記憶ってやつですが…その網膜記憶に従って…頭ではっきりと説明できないことでも、体が勝手にやってしまう…」

「体が勝手にやってしまう?たとえば?」

「…たとえばがっちり抱きついて、ほっぺチュウをしまくっちゃうとか…」


 エラの発言は、タイセイのいらだちを一瞬で吹き飛ばしてくれた。


 彼女は、目の治療後に起きたあの時の情緒的な行動は、脳から命令された意図的なものではない。網膜に残ったなにがしらかの記憶が、勝手に自分にやらせたんだと言いたいのか…。


 エラ…君はなんと豊かな発想力の持ち主なのだろう。

 だが、今回はとんでもなく飛躍しすぎだよ。ましてや、梁裕龍先生は朝の事件を目撃していない。

 いかに聡明な梁裕龍先生といえども、エラの質問を理解するのは不可能だった。

 案の定、彼は新鋭アーティストから投げられた質問を前に、その雄弁だった口をあんぐりと開けて、言葉も出ずにエラを見つめるだけだ。


 タイセイはしばらく笑いを噛みしめていたが、場の雰囲気も変わって、やがて梁裕龍先生も我に返ったようだ。


「いや…すっかりおふたりの邪魔してしまって…申し訳ないことをしました」


 エラの質問に答える代わりに、来た時と同じようにレディに礼を尽くして、テーブルから離れていく梁裕龍先生。


「なんで、私が質問しているのに、梁先生は何も答えもせず急いで帰っちゃうんですか?」


 心配げなエラの問いに、タイセイはいよいよ大笑いをはじめた



〈九龍城砦〉


「タイスケさん、あなた本当にパソコン直せるの?」


 モエは自分の夫に、お茶を出しながら疑いの目で声をかけた。彼は、口をとがらせ頬を膨らませながら、パソコン相手に奮闘している。その表情は、彼が物事に多少困惑している時に出る表情であった。出会った医学生時代からまったく変わらない。彼の心が手に取るようにわかる。だからこそ、そんな彼をより愛おしく感じるのだ。


 モエは夫の膨らんだ頬を眺めながら、助け舟を出す。


「無理だったらいいのよ。買い替えれば済むんだし」

「いや、諦めるのは早い…」


 その時モエは37歳、開業した眼科医院も好調で脂ののったドクターとして、多くの患者さんを相手に忙しい毎日を過ごしていた。一方、夫のタイスケも大学医学部附属病院のエース心臓外科医として活躍していた。

モエの診療所は和歌山にあり、タイスケの附属病院は岡山にある。

 それぞれの事情から、タイスケは岡山へ単身赴任を余儀なくされていたが、眼科医院の休院の時には、モエはできるだけ夫のアパートへ行くようにしていた。普段は厳しく、気丈で、頼りがいのある院長なのだが、夫といる時だけは、なんでも夫に頼って甘えん坊になる。


「こうなったら最後の手段でこのパソコンを初期化するしかないな」

「でも…初期化したら、入っていたデータは全部なくなっちゃうのでしょ」

「ああ、でも重要なデータは外部ディスクにストレージしてるのだろ」

「そうだけど…昔あなたと旅行に行った時の写真をデスクトップ画面にしていたの…それはちょっと惜しい気もするけど」

「確かそれは、俺の外付けハードディスクにとってあったと思う」

「だったら構わないわ」


 タイスケはメンテナンスCDを挿入すると、起動画面から初期化ボタンを押した。パソコンはジリジリ音を立てながら、自動で作業を始めた。


「ところで、我が家の御曹司の様子はどうだ?」


 時間を持て余したタイスケがモエに声をかける。

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