第6話
〈香港街景〉
エラが我に帰って身を離すまで、それは長い抱擁だった。
眼科のドクターであるタイセイは、その間彼女を跳ね除けることができなかった。彼も30代も半ば。女性に関してそれなりの経験はあったが、女性からこれほど熱くそして情感を込めた抱擁を受けた経験はなかった。また、抱擁でこんなに癒しを感じたのも初めてだった。だから、エラが我に返って抱擁を解いた時、ちょっと残念な気もしたが、それも不謹慎だと慌てて気持ちを立て直した。
「ごっ、ごめんなさい」
エラは、顔を真っ赤にして、ただひたすら謝る。そんな彼女を見て、周りの友達たちが一層はやし立てた。
「ドクターの…その…彼女か、奥さまに…本当に失礼なことを…」
タイセイは確かに、20代の最後の歳に結婚していた。しかし1年もたたぬうちに、タイセイは新妻が実は自分ではなく、医者を夫にしたかったのだということを、そして新妻は、彼の結婚の本当の動機は、単なる母親への嫌がらせだったのだという衝撃的な事実を、お互い気づいて離婚していた。
タイセイは過去の記憶をかき消すかのように首を振りながら答える。
「いや、幸か不幸か…3年前に離婚して以来、そのどちらも僕にはいません」
エラはただただ顔を赤く染めてうつむいていた。タイセイもそんな彼女が気の毒になって助け舟を出す。
「日本では人前でこんな熱いハグをする習慣がないので驚きましたが…眼の治療費を、こんな素敵なハグで支払っていただけるなんて感激です。ありがとうございました」
「別に、治療費の代わりってわけじゃ…ちゃんと治療代をお支払いします」
「いや、医師のルールでね。その国の医師免許がなければ、治療をしてお金は貰ってはいけないんです。だから気にしないでください。お役に立ててよかったです。それじゃ」
タイセイは会釈をすると、踵を返してエラから離れていった。
「ちょっと、エラ。このまま帰しちゃっていいの?」
グループの仲間たちがエラのわき腹を肘で小突く。
「けっこうポギ(イケメン)だし、ドクターでお金もありそうだし…なにより、彼女も奥さんもいないんじゃ…ここで逃がす手はないわよ」
囲む友人たちがエラをけしかけるが、エラは全く別なことを考えていた。
あのドクターに以前会った記憶はまったくない。しかしあの、ようやく出会えたような感じ…あれはなんだったのだろうか。
運命の男に出会ったのか?いやこの感じは、異性に惹かれるのとは全く異質なものだった。今それを解明しないと、きっと一生後悔する。
エラはスケッチブックを抱えると、タイセイの後を追った。彼女の友達たちは、飛び出していくエラの後ろ姿に声援を送ったのは言うまでもない。
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