第5話

〈九龍城砦〉


「確かに、人を探し出して消す仕事は多く手掛けてきたが…」


 長い沈黙の後、ドラゴンヘッドはようやく口を開いた。


「探すだけでいいの。消してもらっては困るのよ」


 モエは慌てて相手の誤解を訂正する。


「だが、とくいな仕事とはいえ、誰の依頼でもやるとは限らない。お互いの信用が第一なんでね。それが、この海の底で生き残る秘訣だ」

「わかっているわ。いきなり来た見も知らぬ日本人の依頼を、素直に受けてくれるとは思っていない。だから、せめて信用をお金で買えたらと思って…」


 モエは、バックの中から香港ドルの紙幣の束を取り出すとテーブルの上に置いた。


「ここに150万香港ドルある。仕事を受けてくれたら、これを着手金として支払うわ」


 札束を見てドラゴンヘッドの漆黒の瞳の奥にわずかながら生気の光が宿った。そして、せき込むほどの大笑いを始めた。交渉に乗ってきたと勘違いしたモエはさらに言葉をつづける。


「そして、見つけてくれたら、これとは別に成功報酬として220万香港ドルをお支払いします」


 どや顔のモエであったが、ドラゴンヘッドの瞳に宿った光が、実は邪悪な光であったことに気づくのに、そう長い時間はかからなかった。


「世間知らずにもほどがある…こんな大金をこんな海の底に持ち込むなんて…。いいか、よく覚いておきなさい」


 ドラゴンヘッドは、札束を自分の方へ引き寄せながら言葉を続けた。


「私たちが大切にしている信条がもうひとつある…それはな、できるだけ楽して儲けろってことなんだよ」


 ドラゴンヘッドが入口に立っている男に、顎でサインを送る。


「これ以上、話しを聞く必要もあるまい」


 男が音もなくモエの背後に回りこんだ。


「この金はあんたを無事に空に帰す代金としていただくよ。ただし、おとなしく戻るのか、海の底で獰猛な魚たちの餌になるのかは、あんた次第だがな…」


 やはり犯罪組織のドラゴンヘッドには、まともな取引なんて通用しない。彼の恐ろしい言葉に、モエは腰から下が震えて、立ち上がるのも難しい状態なっていた。しかし、気丈にも臍から上は、なんとか持ちこたえている。消えかかる勇気の灯を無理やり焚きつけて彼女は言った。


「ここに来たら、無事には帰れまいと予想はしていました。それでも、ここにやってきたのは、ドラゴンヘッドならドラゴンヘッドとしてのプライドがあると信じたからよ。お金を受け取るなら、その仕事はきっちりやるべきじゃないかしら」


 モエの精いっぱいの訴えにもまったく意に介せず、非情なドラゴンヘッドは黙って立ち上がった。その時だ。それまではおとなしくドラゴンヘッドの袖を握っていた少年が、その手を離すと、テーブルを回ってモエの腕にしがみついた。そして、ドラゴンヘッドに向かって唸り声をあげたのだ。



「ううう…」

「なんだ、小松鼠(シャオソンシュウ)もう帰って寝る時間だぞ」

「ううう…」


 ドラゴンヘッドが必死になだめるが、少年はモエの腕にしがみついたまま、動こうとしない。


「小松鼠、お前のおかげで思わぬ金が手に入ったが、もう話しはおしまいだ。こっちへ来い」


 言うことを聞かない少年に、焦れたドラゴンヘッドは、今度は口調を荒げて諫める。

 だがそれでも、少年は動こうとしない。恐怖で足をすくませていたモエだったが、老人と少年の意味不明の中国語のやり取りにも関わらず、少年が自分の味方になってくれているのではないかと感じることができた。


「おい、ミセス・コウケツ。うちの小松鼠に、いったい何をしたんだ」


 常日頃からドラゴンヘッドの言葉には、従順に従う小松鼠。 しかし少年が初めて見せた反抗に、彼はその困惑の矛先をモエに向けた。


「シャオソンシュウくんっていうのね」


 少年が味方についてくれたと思うと、モエも多少落ち着いてきた。しがみつく少年の手を優しくなぜながら、言葉を続ける。


「ドラゴンヘッドさんに会いたいと思って、危なそうな人を見つけては尋ね歩き…そんなことをしながら街を彷徨っていたら、いきなり彼が近づいてきて連絡先が書かれたメモを渡されたの」


 小松鼠を見ると、興奮しているせいか髪が乱れている。モエは彼の髪を手すきで整えてあげた。


「そうしたら今度はドラゴンヘッドさんを連れて現れてくれたのには驚いた…。シャオソンシュウくんと会ったのは今で2度目だけど、お名前も今知ったくらいなのよ」


 ドラゴンヘッドは舌打ちをすると、首を左右に振りながら、元の椅子に座る。それを見た少年は、安心したように、今度はモエの袖を握って、彼女の横に座った。


「やれやれ…孫にせがまれて…仕方なく来てはみたものの…」


 老人は、モエの横に座る少年にあらためて目を向けた。


「お分かりだと思うが、この子は少し知恵が遅れておる」


 ドラゴンヘッドの瞳に家族愛の灯を見て、モエも少し心が緩んだ。


「シャオソンシュウくんはドラゴンヘッドさんのお孫さんだったのね?」


 少年は、視点を定めず、あちこちをせわしなく見回している。モエに見つめられて、若干照れているしぐさにも見える。ドラゴンヘッドはモエの問いに答えもせず、言葉を続けた。


「しかしな…頭に知恵が詰まっていない分、その隙間に…なにか大切なものを隠し持っているのじゃないかと思う時がある」

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