第4話

 友人から紙皿に盛られたレチェ・フランを受け取った彼女は、プラスチックのスプーンで口元に運んだ。

 その時、甘い香りに誘われた蜂が、スプーンに盛られたレチェ・フランを目指して飛んできていたのだが、彼女はそんな危機に気付くことができなかった。


 日本には「風が吹けば桶屋が儲かる」という落語があるが「香港に風が吹くと…」いったい誰の人生が変わるのだろうか。

 いたずらな、香港の風は、スプーンに盛られたレチェ・フランへ着地しようとする蜂の羽を狂わせ、エラの眼球にハチをぶつけた。本能的に瞼を閉じた彼女であったが、そのことが蜂を興奮させエラの眼球の上でひと暴れする結果となったのだ。


「キャーッ」


 彼女の叫び声は、半径50mにいる人間の注意をひくのに十分なものだった。


「痛い、痛い、痛い。何とかしてーっ」


 エラは、はた目から見ても、異常なほどのパニックを起こしていた。

 両手で目を押さえて、叫びながら地面を転げまわっている。目を擦りながら暴れて2次的な怪我をしかねない。まわりの友達が 彼女を落ち着かせようするが、パニック状態に陥ったエラの体をなかなか抑え込めないでいた。

 エラにしてみれば、闇の世界にはもう二度と戻りたくはなかった。闇の世界にもどるくらいなら、いっそ歩道の石に頭をぶつけて死んだ方がましだ。

 その時彼女は、腕を押さえられながらも、聞き覚えのある言葉を聞いた。


「私は目のドクターだから…安心してください」


 それは日本語であるから、フィリピーナのエラには、その意味が分かるわけはない。

 しかし、彼女はその言葉に聞き覚えがあった。そして、その言葉で奇跡を体験したことを思い出した。彼女はおとなしくなった。


「ちゃんと診てあげますからね…」


 目を閉じたままのエラでも、声の主は男性であることはわかった。自分の瞼に柔らかい指が触れると、その指から伝わるぬくもり、そして目を閉じていても肌で感じられる相手の優しさ、そんなものをその声の主から感じていた。


「うん、大丈夫。蜂は黒いものに対して刺す習性があって、黒目(角膜)の部分が刺されることが多いのだけど、角膜に損傷はないようですね」


 彼は診察をしながらそう言ったが、日本語であるから誰一人理解しているものはいない。周りの女性たちはきょとんとした顔で彼を見つめていた。


「ああ、ごめんなさい…眼球の表面がちょっと傷ついた程度です。充血しているけど、洗浄しておけば大丈夫です」


 彼は英語に切り替えると、持っていた洗浄液で、エラの眼球を洗い、白いガーゼで軽く眼帯を施す。洗浄液に白いガーゼ。先輩の医師でもある母親にしつこく言われて、こんなものを持ち歩く習慣が身についた。しかし、無駄だと思っていたこんな習慣が、初めて役に立った。

 周りの女性たちは、突然現れたドクターが、手際よくエラの瞳を処置するのを感心しながら眺めている。

 ひと通りの処置を終えるとドクターは、エラのこめかみに両手を添えて眼帯の位置の調整し、笑みを浮かべて言った。


「これでOK。そのうちはっきり見えるようになりますよ」


 その声に安心して、エラが、無事な方の目を開ける。そのぼやけた視点の先に、ドクターの顔の輪郭を見た。彼女の胸が苦しくなり、動悸が激しくなる。ああ…ようやく出会えた。理屈ではなく、心が感じた。


 そして、事件は突然起きた。こめかみを支えられていたエラが、突然ドクターに飛びつくと全身の力を込めてしがみついた。

 ドクターは比較的長身で、小柄なエラとは身長差があったが、なんせ目の治療で顔の位置が近かったこともあり、ドクターはそれを避けることができなかった。というか、驚きのあまり動くことができなかったというのが本当のところだ。

 エラは治療した目に一杯涙を溢れさせて、頬をドクターの頬に摺り寄せながら、治療の感謝とは程遠い、強く情緒的なほっぺチュウを何度となく繰り返した。周りを囲む女性たちから、大きな歓声が起きていた。

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