第3話

〈香港街景〉


 香港MRT(地下鉄)の中環(セントラル)駅近辺は、日曜になると出稼ぎフィリピン女性で溢れかえる。


 大抵は、欧米人や中国人の裕福な商人の家庭で家政婦(メイド)として働く人たちである。休みの日曜日にはここに集まって、路上や公共通路、付近の公園などに段ボールを敷いて、同郷の仲間たちとおしゃべりや食事、トランプなどをして楽しんでいる。


 雇い主の家に住み込みで働いている彼女たちは、香港に自分の家がない。そのため、唯一のお休みには、外に出て同郷の友人や親戚と集まって過ごすのだ。

 休日に飼い主の家に居ると、用を言われて休みにならないとか、盗難の嫌疑をかけられるとか、不謹慎な雇用主に言い寄られるとか…。とにかく用もないのに家に居ることは、不必要なトラブルに巻き込まれかねない。そんなことも、彼女たちがここにたむろする一因でもあるようだ。


 大概の人々は、それぞれの仲間のシートに集まって、おしゃべりの散弾銃を打ちまくる。しかし、そんな喧噪のなかで、誰とも話さず大判のスケッチブックを開き、スケッチを楽しんでいる女性がいた。彼女の名は、エラ。本名は、 Elaiza James Dacara。

 彼女も大半のフィリピーナがそうであるように、貧しい家に生まれ、16才で自立し、恋をし、裏切られ、過労による流産を経験し、そして体の回復も十分でないまま、母や家族を養うためにここ香港に出稼ぎにきている。


 おしゃべりに余念のないフィリピーナたち。しかし、同じフィリピーナでも、彼女は周りの女性たちと違った雰囲気を持っていた。小さくはあるが、感性と創造性の色彩がその瞳の奥に宿っている。それは、幼い頃から続けているスケッチを描く習慣が、彼女にもたらしたものであろう。彼女は目に映るものを、楽しそうにスケッチブックに描いていた。

 しかし、だからと言ってその習慣が経済的に彼女を豊かにする糧になっている訳ではない。


「ねえ、エラ」


 傍にいた友人が彼女に話しかける。


「なに?」

「おしゃべりより、絵を描いている方が好きなんて…女としては変態よね」

「そうかしら…」

「だって…女は口から先に生まれたって言われるのが通説よ」


 友人が自らの口をとがらせて、エラを責め立てる。


「休みに仲間と集まったこの状況で、口を動かさないでいられるあなたが不思議でしょうがないわ」

「ハハハハ…でも、みんなの話しを聞きながらスケッチするのって、けっこう楽しいわよ」

「そうかしら…楽しいかもしれないけど、ストレスの発散にはならない。女ってね、大好きな人とのおしゃべりで、日頃のストレスを発散した時こそ、本当に幸せを感じる生き物なの」

「そうかしら…」

「あら、だったらエラは、どんな時に幸せを感じるの」

「そうね…まぶしい日差しを手で陰る時かな」


 エラはそういいながら、船長さながら腰に手を当てて遠くを見るポーズをとった。そんなエラの答えと可愛いしぐさに周りはどっと笑い出した。


「…別にあなたの勝手だけど、変な時に幸せを感じるのね」


 エラは笑いながらも、またスケッチを描きはじめる。


「とにかくいい加減スケッチブックを閉じて、あなたも、レチェ・フラン(すごく甘いフィリピン版プリン)を食べなさい。家で奥様の目を盗んで焼くの、苦労したんだから」

「はーい」


 エラは、友達の誘いに笑みで応えながら、仕方なくスケッチブックを閉じた。

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