第2話
ここの正式な地名は九龍城砦(クーロンじょうさい)。ジャンボ機が旋回しながら着陸するという「香港カーブ」で知られた旧「啓徳(Kai Tak)空港」の近くに存在している。ここでは、120×210メートルという狭いエリアに500を超えるビルが密集し、一時期は5万人にもなる住人が生活を送っていたという。
寄り添うように建てられた通称ペンシルビル。文字通り鉛筆の先のように、細く尖がったビルに住人が密集したため、平均人口密度はおよそ畳2枚分に1人。このとても信じがたい人口密度のゆえか、香港政府の規制も行き届かず、衛生法なども順守されない状態となっている。実際、九龍城砦ではゴミの収集が行われないため、古くなったテレビや古い家具、捨てられたマットレスなどのかさばるゴミはビルの屋上に放置され、公共通路といえば異臭を放つ塵が散乱している。
そんな荒廃とした環境ではあるが、実際のところ、多くの住民はごく普通の生活を送っていたようだ。確かに「犯罪の巣窟」という側面がなかったわけでないが、その極端な極悪なイメージは映画やドラマなどによって定着したといえなくもない。
しかし、地名も、場所の由来もしらぬモエは、ただただその場の雰囲気に飲まれていた。ともすれば逃げ出したくなる気持ちを必死に抑えて男に従った。彼女には男についていかざるを得ない理由があったのだ。
やがて男は、言いようもない匂いと湿った空気に満たされた小さなダイニングキッチンへ彼女を導くと、薄汚れたダイニングテーブルの椅子を顎で指し示す。そして、彼女が腰かけるのを見届け、男はキッチンの入口にある柱に寄りかかり、目をつむって動かなくなった。
モエの膝は、テーブルの下で小刻みに震えていた。なんとか震えを止めようと試みた。それも徒労に終わると、もういい。どうせテーブルの下で見えないのだから、とあきらめた。重要なのはテーブルの上に露見する上半身だ。彼女はそう自分に言い聞かせて、深く呼吸し顎を上げ、そして胸を張った。弱い自分を他人に見せたくない。彼女が夫を失ってから今まで、自分に課していたコンプライアンスである。
どれくらい待っただろうか。やがて白い長いひげを蓄えた老人が、少年を引き連れてキッチンに現れた。少年は老人の中国服の袖をしっかりとつかんではいたが、落ち着かない目であちこちを見ていた。よく観察すれば青年に近い年齢なのだろうが、少年としての印象が強いのは、彼が知的障害者であるからかもしれない。
老人は、ダイニングテーブルのモエに対峙する位置に座ると、じっとモエを見つめた。モエはその瞳の中を探り、この老人とのネゴシエーションを有利に運ぶヒントを得ようと試みた。だが、ただそこには漆黒の闇しかない。いったいどんな生き方をしたら、こんな深い闇を瞳に宿すことができるのだろうか。もしかしたら、想像もつかないほどの残忍なことを見続けた結果なのか…。自分は無事にホテルに戻れるのだろうか。いや、無事に戻ったところでここへ来た目的を果たさなければ生きていく意味もない。
「空を舞う鳥が、なぜ海の底に潜ってきたのかのう…こんなところに長居すれば溺れ死ぬのは承知だろうに…」
老人が口を開いた。流ちょうな英語だった。モエも英語で応えた。
「…用がなければ、こんな恐ろしいところには来ません」
モエは、第一声が震えずに言えたことは、奇跡だと思った。老人は返事もせずに黙ったままだ。
「私は纐纈モエ。あなたは、香港マフィア14Kのドラゴンヘッド(頭首)さんよね」
モエの問いにも、老人は何の反応も示さなかった。どれくらい沈黙が流れただろうか。老人の傍にいた少年が、焦れて老人の袖を何度か引いた。老人は、困ったように眉間にしわを寄せたが、少年を怒るようなことはしなかった。
やがてモエに向き直ってようやく口を開く。その瞳には相変わらず漆黒の闇が漂っている。
「だとしたら…」
モエは、バッグから写真を取り出すとテーブルの上に置く。そして、今自分が感じている恐怖と不安を悟られぬよう、ゆっくりと低い声で答えた。
「探してほしい人がいるの」
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