575 ▽獣将

 議会政治を行っているセアンス共和国に王はいない。

 一応は議長が政府の長と言えるかも知れないが、独断で物事を決める権限は有していない。


 ましてや降伏するか否かなど話し合いを経ずに決める権利など誰も持っていないのだ。

 敵はこちらの政治事情などまったく知らないし、気にもしていないのだろう。


「敵の将軍は話し合いを所望している。ならば、この機を利用しない手はない」


 アルジェンティオは踵を返して門の方へ向かう。

 どうやら彼が王を名乗って獣将の所へ行くつもりのようだ。


「独断で降伏を受け入れるつもりなのですか?」


 シュタール帝国側の老輝士が英雄王に質問をする。


「無論、そのつもりはない。話し合いに応じるフリをするだけだ。相手の隙を探るためにな……」


 相手は異界から来た侵略者である。

 その上、今はルティア七万人以上の市民の命が掛かっている。

 戦端を開く前に、できる限りのことはやっておくべきだと言う英雄王の考えは正しいと思う。


 だが。


「これより私は街壁の外に出る。連合輝士団は門の内側で待機せよ。万が一の時に備え、護衛として二人ほど――」

『って、ああああああっ! やっぱり面倒くせええええぇぇぇぇ!』


 獣将の声が再三響くと同時に、激しい打撃音と共に街壁が大きく揺らいだ。


 二度、三度と揺れは続く。

 連合輝士団の面々は息をのんで街壁を見つめた。

 ぴしり、という音がして最初の亀裂が入ると、そこから先は早かった。


 積み上げられた鉄壁が。

 外と内とを分かつ境界の壁面が。

 輝工都市アジールを聖域たらしめる守護の防壁が。


 崩れていく、音を立てて崩壊していく。

 その光景はまさに鋼鉄の滝であった。


「うぎゃあああああっ!」

「た、待避! 待避だっ!」


 街壁上部の監視塔から兵士が投げ出されて落ちていく。

 連合輝士団の勇敢な戦士たちも、思わず声を上げて後ろへ下がった。


「ま、待って――ぎゃああ!」


 逃げ遅れた数人が崩落に巻き込まれてしまう。

 そして、土煙が舞う中、白銀の巨体がのそりと姿を現した。


「最初からこうすりゃ良かったんだよな。降伏勧告なんて面倒くせえことしてねえでよ」


 獣将バリトス。

 悪夢のごとき景色の中、怪物は街壁を打ち砕いて、易々とルティアに侵入してきた。


「第一、なんでこの俺様がゼロテクスの野郎の指示に従わなきゃいけねえんだ? 奴隷に使うヒトなんて生き残ったやつだけで十分だろうに」

「あぎゃっ」


 無造作に歩を進める白き虎人。

 逃げ遅れて瓦礫に挟まれた輝士が虫けらのように踏み潰される。

 真っ赤なザクロと貸した輝士は一顧だにされず、獣将の足に僅かな汚れだけを残した。


「うわ、ああ……」


 連合輝士団たちは完全にパニックになっていた。

 街壁が破壊される可能性は十分に考えられたことである。

 だがそれは、敵の攻撃に耐えられなくなった最終局面の話だった。

 こんなあっさりと敵の侵入を許すなんて、誰ひとりとして夢想すらしなかった。


「なあ、てめえらもそう思うだろ? だからよ……」


 獣将の足がピタリと止まる。

 口元にはニヤリと笑みを貼り付けて。

 大きく息を吸い込むと、天に向かって吠えた。


「総攻撃、開始いいいいいぃぃぃっぃぃいいいい!」


 それは数キロ向こうに待機する魔王軍への号令であった。




   ※


 遠くから進軍の地響きが聞こえる中、獣の将は跳んだ。

 二メートルを超える巨体が連合輝士団の真ん中に着地する。


「ぐびゃっ」


 運悪く下敷きとなった輝士は、鎧ごと砕かれて地面の染みとなった。


「オウラァッ!」


 白き虎人族が腰を捻り、丸太のような腕を振り回す。

 指の先についた曲刀のような爪が周囲の輝士たちをを薙ぎ払った。


「ぁ――」


 叫び声を上げることさえ許されず、五人の輝士がズタズタに引き裂かれる。

 一秒前までは生きて動いていた人間が、物言わぬ肉塊となって、辺りに飛び散らばる。


「貴様ァ!」


 勇敢なシュタール輝士が獣将の背後に回って斬りかかった。

 アルジェンティオの左方に控えていた壮年の輝攻戦士である。


「こいつさえ倒せば敵軍は退くはずだ!」


 さらに別の若い輝攻戦士が輝粒子の尾を引き、暴虐なる虎人へと躍りかかる。

 迫り来る敵の大軍が辿り着く前に、敵の将を倒そうという判断は間違っていない。


 しかし。


「な……!」


 壮年輝士の剣は確かに獣将の背に、若き輝士の槍は無防備な腹部に触れた。

 だが、彼らの持つ刃は獣将の肉を断つことも貫くこともない。

 どちらも白き毛皮の表面で止まってしまった。


 渾身の一撃を、防御の姿勢すらとることもなく、その身体で受け止めた獣将。

 信じがたい現実に、武器を引くことも忘れた若き輝攻戦士。

 彼は次の瞬間には獣将の手の中にいた。


「ひゃっはぁ! 人類戦士ィ!」

「う、うぎゃああああっ!」


 獣将は輝粒子で強化された若き輝士の体を片手で握り潰す。

 そのまま絶叫を上げる輝士の顔面を拳で殴りつけた。

 血と肉と輝粒子が飛沫となって空中に拡散する。


「やめろ、やめろォ!」


 仲間がやられている間、壮年の輝士は獣将の背を剣で何度も叩いていた。

 だが、その攻撃のすべてが、鋼の肉体に受け止められてしまう。


「よっと!」

「べべっ」


 獣将はやや前屈みになると、片足を思いきり後ろに突き出した。


 単なるバランスの悪い後ろ蹴り。

 それだけで壮年輝士の体は原型を失う。


「さあ、次はどいつだァ!?」


 ぐちゃぐちゃになった若き輝士の遺骸をゴミのように放り捨て、獣将は叫ぶ。


「あ、あああ……」


 シュタールの輝攻戦士たちが無残に殺された時、アルジェンティオは不様にも腰を抜かしていた。

 先ほど街壁が崩落した時も、この仮面の男は真っ先に逃げ出した。

 英雄王の名からほど遠い醜態である。

 だが、そんなアルジェンティオを情けないと誹ることは誰もできない。


「あ、あり得ねえ……なんだよこれ、嘘だろ……?」


 他の連合輝士団員たちも完全に恐慌に陥っていた。

 彼らの誰も、輝攻戦士がこうも容易く殺される所を見たことがない。

 想像を絶する化け物を前にして、現実を受け入れられなくなっている者ばかりだ。


 獣将は唇の端を歪めて前に出る。

 一歩踏み出すに地面が揺れるような錯覚を引き起こす。


 ちらり。

 獣将は足下に目を向けた。

 そこには無様にへたれ込んでいる英雄王の姿があった。


 その人物がかつてビシャスワルトに乗り込み、彼らの計画を十数年遅らせた英雄であることを、獣将は気付いていただろうか?


 ただ目障りな障害物があるとばかりに、大きく足を振り上げて英雄王を踏み潰そうとする。


「や、やめ――」


 か細い懇願の声を無視して、獣将の足が振り下ろされた。

 体重をかけた一歩は、石畳の地面を割り、大きな足跡をつける。


「あん?」


 だが、そこにアルジェンティオの姿はなかった。


 避けたわけではない。

 彼は動くことすらできなかった。

 アルジェンティオは踏み潰される直前、首根っこをひっつかまれて投げ飛ばされていた。


 獣将は顔を顰め、前方を見る。

 自分の邪魔をした目の前に立つ輝士を――ジュストを睨み付ける。

 そして、無言で腕を振り上げて、風斬り音を鳴らしながら鋭い爪を振り下ろした。


 ジュストは聖剣メテオラを掲げて攻撃を受け止める。

 踏みしめた大地は大きく裂け、予想を遙かに上回る衝撃に顔を歪める。

 それでも、ジュストは先ほどの輝士のようにバラバラにされることはなかった。


「ほう?」


 獣将は興味深そうに眉をつり上げた。

 すでにジュストは二重輝攻戦士デュアルストライクナイト化している。

 液体状の輝粒子を纏う戦士を、獣将は今までの敵とは違うと見なした。


「ぐ、ぐ……」


 ジュストに余裕はない。

 軽く腕を振っただけでこの威力。

 何度も耐えられるような攻撃ではない。


「はやく、他の輝士たちを……!」


 ジュストは獣将の爪を受け止めながら、後ろで腰を抜かしているアルジェンティオに呼びかける。


「こいつは僕が引き受けるから、連合輝士団には外からの敵に当たらせろ!」


 言葉を取り繕う余裕も、背後を伺って反応を気にする余裕もない。

 この場において自分は自分のすべき役目を引き受けるだけ。

 責任ある者には、やるべきことをやらせるのだ。


 ジュストの役目。

 それは――このバケモノを食い止めること。


「テメェ、人類戦士でも他のやつとはちっと違うな!」


 抑える剣に体重が掛かる。

 ……なんてパワーだ!


 力比べでは敵わない。

 このままでは押し潰される。


 ジュストは大きく右側に飛び退けた。

 地面を蹴って折り返し、相手の側頭部を叩く。

 しかし、その奇襲すらも容易く受け止められてしまう。


 爪ではなく、腕で。


「くっ!」

「だが俺様には及ばねえ!」


 獣将が足を振り上げる。

 ジュストは族座に後ろへ飛び退いた――が。


 躱すには間に合わず、敵の爪先が腹へとめり込んだ。

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