479 ▽隠棲した英雄

 男が雪中を歩いていた。


「ちっ、しくじったか……」


 その表情は険しい。

 彼は今朝方の判断を後悔していた。


 高山の天気は変わりやすい。

 とはいえまさか、ここまでの暴風雪に見舞われるとは。

 よりによってこんな日に食料を取りに行こうなどと思いつくんじゃなかった。


 身の丈一九〇センチの偉丈夫である。

 顔半分が髭で覆われた、彫りの深い容貌。

 双眸は歴戦の輝士のような力強さを湛えている。

 分厚いコートを身に纏い、背中には鞘に収めた長剣を差している。


 男は大きなずだ袋を引きずっていた。

 その跡が雪上に刻まれた側から、降り続ける雪にかき消されていく。


 ふと、前方に何かが転がっているのが見えた。


 群れから離れて迷い込んだ鹿の死骸か?

 思わぬ収益なら幸運と思い、しゃがみ込んで覗き込む。

 しかしそれは、半分雪に埋もれかけているが、間違いなく人間であった。


 まだ若い少年である。

 口元に手を当てる。

 息があった。


 男はため息を吐いた。

 命知らずの登山家か、時代錯誤な冒険者か。

 何者か知らないが、ここはマトモな人間の来る場所ではない。


 並の精神力では一晩と持たない極寒の地。

 しかも、少数だが残存エヴィルも住み着いている。


 このまま放っておけば、この少年は間違いなく死ぬだろう。

 見かけておいて放置するのも寝覚めが悪い。

 とりあえず小屋に連れて行こう。


 冷え切った体を持ち上げようとした、その時。


 男は少年が抜き身の剣を握っているのに気づいた。

 よく見れば、体中に鋭利な刃物で斬られたような傷がある。


「キュオンと戦って退けたのか?」


 と、男は動き出した少年に腕を振り払われた。


「余計なマネすんじゃねー……」

「何?」


 少年はふらつく足取りながら、自らの足で立ち上がる。


「二度も助けられてたまっか。今度こそ自分の足で辿り着くんだ」


 少年の目はうつろで、焦点も定まっていない。

 狂ったか、あるいは寒さで幻覚でも見ているのか。

 どちらにせよ、関わり合いにならない方が良さそうだ。


 以前の自分なら気絶させてでも連れ帰ったかもしれない。

 が、今はとにかく面倒事に巻き込まれるのは嫌だった。


 凶器を持った狂人と関わっても碌な目には遭わないだろう。

 せっかくの善意を振り払われてまで、世話を焼いてやる義理もない。


 男は少年の横を通りつつ肩を叩き、


「頑張れよ」


 口だけのエールを送った。

 それきり振り向くことなく、住処の小屋へと急いだ。




   ※


 山中の岩陰に男の住む小屋はある。

 三方向を高い岩壁に囲まれている場所だ。

 その一方から覆い被さるように岩が突き出している。

 天然の防壁のおかげで、周囲に雪が積もりにくくなっているのである。


 男は小屋に帰ってくると、まずは火打ち石で暖炉に火をつけた。

 外からの直風がないだけで随分とマシだが、それでも寒いことに変わりはない。


 火が点ったのを確認して背中の剣を降ろす。

 それからコートを脱いで、ずだ袋の中身を確かめる。

 獲物の血抜きが完了してることを確認すると、調理場に運んで細かく切り分ける作業に入った。


 この気候の中、苦労して取ってきた食用肉だ。

 限られた調味料でどのように調理しようか思案するのは、男の楽しみの一つである。


 ふいに、ドアを強く叩く音が響いた。


 男は最初、風で飛んできた何かが戸に当たったのかと思って無視した。

 だが、しばらく経つと音は再び鳴り始める。

 規則的に響く打撃音。

 さすがの男も異常を感じて、包丁を握る手を止めた。


 何かが戸の外にいるのは間違いない。

 エヴィルが偶然ここに辿り着く可能性もあるだろう。

 しかし、異界の獣ならこんな上品なノックはしないはずだ。


 考えにくいことだが、何者かが尋ねてきたのだ。


 まさか……と思いつつも、男は外の様子を確認した。

 一応、用心して抜き身の剣を右手に持ちつつ、ゆっくりと戸を押し開く。


 はたして、そこにはさっきの行き倒れの少年が立っていた。

 体はほとんど雪に埋もれていて、顔色すら定かではない。


「何用かな」


 男は尋ねる。

 少年はこちらの質問を無視し、逆に尋ねてきた。


「あんたが、剣舞士ダイスか」


 ああ、なるほど。

 男は――魔動乱の五英雄の一人、剣舞士の異名を持つ剣士は、ようやく納得した。


 この少年は自分がここに隠居しているという噂を聞いて尋ねて来たのだ。


 魔動乱終結から十数年。

 この手の来訪者は初めてではない。

 だが、こんな少年がたった一人でやってくるのは珍しい。


 全くの無事と言うわけではなさそうだ。

 少年はダイスの答えを聞く前に、糸が切れたように倒れた。


 とっさに支えてやるが、体は氷のように冷たい。

 吹雪の中を薄着で歩けば当然のことだった。


 よく見ると、毛皮の切れ端のような物が腰に残っている。

 やはりエヴィルと遭遇したのだろう。

 破れたコートの残骸のようだ。


「……面倒な」


 さすがにほっぽり出すわけにも行かない。

 ダイスは少年を軽々と担ぎ上げると、暖炉の部屋へと運んでやった。




   ※


 焼いた肉の匂いに誘われたのか、少年はようやく目を覚ました。


「ここはどこだ……」


 少年は虚ろな表情で呟いた。

 まだ半分まどろみの中にいるようだ。


 ダイスは少年の問いには答えず、代わりに塩コショウで味付けした肉を差し出した。

 さっきは雪に覆われて気付かなかったが、目の覚めるような黒髪である。

 東国人と出会うのは初めてだが彼の素性に興味は無い。


「それを食ったら、天候の回復を待って山を下りろ」

「アンタが剣舞士ダイスか?」


 少年がまた質問をする。

 どうやら意識がハッキリしてきたようだ。

 しかしダイスはやはり無視し、自らの皿に盛った肉を食い始めた。


「おい」

「いいから食え」


 かみ合わない会話。

 少年が舌打ちした直後、腹の虫が鳴る音が響いた。

 彼は眉根を寄ながらナイフを手に取り、突き刺した肉を口に運んだ。


「うめえ……」


 感嘆の言葉を聞いて、ダイスはにやりとした。

 相手が空きっ腹の半死人だろうが、自分が作った料理が褒められるのは気分が良い。


「食ったことねえ味だな、なんの肉だ?」

「キュオンだ」


 気分を良くしたダイスは、今度の質問には正直に答えた。

 途端、少年の手が止まる。


「は?」

「お前もさっき襲われたんだろ。この山じゃそれくらいしか狩れる獲物がないんだ」

「バカ言ってんじゃねーよ。エヴィルが食えるわけねーだろ」


 少年の言葉は一般の認識であれば間違いではない。

 エヴィルを狩る難度は脇に置くとしても、倒して肉を食うなど通常は不可能である。


 生命活動を停止したエヴィルの肉体は煙のように消失してしまう。

 跡に残るのは、様々な色のエヴィルストーンのみ。

 生物だった痕跡は肉片一つ残さない。


 ただし、それは普通に倒した場合の話である。


「……邪悪を斬ったのか?」


 ダイスはぴくりと眉を上げた。


「下の村で家畜として飼われているキュオン、あれはあんたがやったんだってな。エヴィルってのは邪悪を斬られると……『斬輝』を受けると、普通の獣と同じになるのか?」


 ダイスは肯定も否定もしない。

 だが、概ね少年の言うとおりである。

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