476 ▽奇妙な家畜
「よう坊主。すっかり良くなったみたいだな」
「おう」
村人に声を掛けられた。
ダイは彼の名前も知らないが、向こうはこっちを知っているようだ。
雪原で行き倒れていた少年が保護されたという噂は、とっくに村中に広まっていた。
老人や子どもを合わせても三十人に満たない小さな村落である。
この辺りは夏場の一時期を除いて、ほとんど雪が溶けない地域らしい。
遠くにそびえ立つ見上げるような真っ白い山々は、まるで人々を威圧するようだ。
「こんな雪まみれの場所でよく暮らしていけるな」
ダイが何気なく呟いたら、ティニーは説明を求められたと思ったのか、嬉々として語り始める。
「定期的に隊商を組んで町に買い出しに行ってるから、ものは不足してないよー。田畑もしっかりとお手入れしていて食べるもの十分にあるしね。うちの村のお米は町でも評判が良いんだからっ」
「米? 米を作ってるのか?」
「うん。ダイ君が食べたお粥も、うちの村で作ったお米でつくったんだよ」
「そうか、あれは美味かったな……」
なんとなく故郷を思い出す味だった。
思わず呟いてしまった後で、ティニーが笑っているのに気づく。
「村にいる間はいくらでもごちそうするからね!」
「お、おう」
しばし無言で歩く時間が続く。
やがてふたりは村はずれの厩舎に辿り着いた。
「ところで、馬って雪の上でも走れるのか?」
ダイは立ち止まって疑問を口にする。
隊商があるからには馬車があり、そのための馬なのだろう。
だが、雪の上で重い馬車を引くことが、果たして可能なのだろうか?
「え? 厩舎の中にいるのは馬じゃないよ」
ティニーは不思議そうに首を傾けた。
馬じゃなければ何がいるんだ。
まさか犬ぞりか?
「入ってみればわかるよ」
言われるまま厩舎の戸を開けて中に入る。
こういう場所にありがちな獣の臭いが全くしない。
不思議に思った直後、ダイは思わずとっさに後ろへ飛び退いた。
腰の剣に手を掛けようとして、武器を持っていないことを思い出す。
「きゃっ」
ティニーを背中で突き飛ばしてしまった。
雪の上に投げ出されてパニックになる彼女を引き起こし怒鳴りつける。
「さっさと家に戻って俺の武器を取ってこい!」
「えっ、えっ」
ティニーは大声に怯えているのか、頬に手を当てて不安そうにしている。
だが、今は落ち着いて相手していられるような状況ではない。
なぜなら、厩舎の中にいたのは紫色の大型犬。
キュオンという名のエヴィルだったから。
「お、落ち着いて、ダイ君」
「モタモタするな! 一刻を争うぞ!」
どうやったのかは知らないが、結界を破ったエヴィルが村内に侵入しているのだ。
こいつが暴れたら、こんな小さな村などあっという間に全滅してしまう。
多少なりとも恩ある人たちを見殺しにはしたくない。
ダイはもう輝攻戦士になることができない。
それでもキュオン一匹くらいなら、生身でも倒せる自信はある。
ただし、それも武器があるのが最低条件だ。
「おやおや。何をやってるんだい、昼間っから」
二人のそばをシュナメルが通りかかった。
農作業の途中なのか、片手には鋤を持っている。
「ティニーのことを気に入ってくれたなら別にそういうのは構わないよ。けど、行きずりの関係は許さないからね。責任とって嫁にもらって村で暮らすか、あんたの旅に連れてってやんな」
「そんなお母さん、私はまだ子どもだし、こどもとか早いと思うの……」
ダイは現在、倒れているティニーを抱き起こす格好になっていた。
その姿を見て勘違いしたのか、シュナメルが見当外れのことを言う。
ティニーは頬を染めて恥ずかしそうに口元を抑えている。
その可憐な仕草は普通の男が見れば惚れてしまいそうな嫋やかさだ。
だが、今のダイには物わかりの悪い母娘に対しての怒りしか涌いてこない。
「もういい、そいつを寄越せ!」
もはや武器を取りに行っている暇も惜しい。
とりあえず、武器になりそうな農具を奪おうとする。
しかし、手を伸ばそうしたダイの袖を、ティニーが掴んで引き留めてしまう。
「う、うん。そうだね。まずはそこからだよね。あのね、出会ったばっかりでこんなこと言うのもなんだけど、私、がんばってダイ君に好きのキモチをあげられるようにするから……」
なにか盛大に勘違いしている盲目少女を思わずぶっとばしたくなったが、そんなことをしている間にもシュナメルが二人の横をすり抜けて、厩舎の中に入って行ってしまう。
「盛んなのは結構だけど、ちゃんと仕事はやってくれよね」
「おいっ!」
中にはキュオンがいる。
ダイは彼女が紫の魔犬に八つ裂きにされる姿を想像した。
すぐに助けに行かなくてはならないと、力任せにティニーの手を振り解く。
「やんっ」
かわいらしい声を上げてティニーが再び雪の上に倒れる。
なぜか頬を赤らめて腕を胸の前で交差させていたが、ダイは無視して厩舎に飛び込んだ。
すると、ダイの目に信じられない光景が飛び込んできた。
「あー、そっか。普通の人はこれを見たらビックリするわね」
想像とは異なり、シュナメルは五体満足で立っていた。
問題はそこではない。
彼女の目の前には、変わらず紫の魔犬がいる。
頭を屈めて、バケツに入った飼い葉を食っている、キュオンが。
「な……ん……」
それは、あり得ない光景であった。
エヴィルという生き物は……
いや、生き物と呼べるかどうかも定かではない異界の魔物には、いくつかの特徴がある。
まず、エヴィルは口腔からのエネルギー摂取を必要としない。
疲労や消耗はあるが、長時間放っておけば自然に回復してしまう。
だから野生動物を襲ったり、自然を荒らしたりはしない。
生き物を殺して喰うわけではない。
エヴィルは物理的な食事をしない。
そして、エヴィルは人間を襲う。
勝てない相手でも臆することはない。
目の前に人間がいれば必ず殺そうとする。
人を殺して、漏れ出た絶望と、わずかな輝力を食い物にする。
それ故に、エヴィルは人類の敵と呼ばれるのだ。
だが、目の前のキュオンの行動はどういうことだ?
目の前にシュナメルがいるにも関わらず、襲う気配を見せない。
それどころか、普通なら絶対に食べないはずの飼い葉を食んでいる。
食事をしない。
人間を襲う。
目の前のエヴィルは、この二つの条件を完全に無視している。
これはエヴィルのことをよく知る者なら目を剥くような光景だった。
もちろんダイも例外ではない。
現実に思考がまったく着いていかない。
そんなダイにシュナメルは優しく声をかけた。
「心配しなくても大丈夫だよ。ペット化されてるから、人間を襲ったりなんかしないって」
「ペット、化……?」
エヴィルを飼い慣らすなんて、そんな話は聞いたことがない。
いや、ひとつだけ例外があった。
フェリキタスと呼ばれる翅の映えた小人型のエヴィルである。
こいつはエヴィルの中でも凶暴性が弱く、足の裏から輝力を吸収する。
その習性を利用して自在に操るフェリーテイマーという特殊な使い手もいる。
ただし、フェリキタスがエヴィルか否かは未だにハッキリしない。
前述の「人間を襲う」というエヴィルの前提条件を満たしていないためだ。
キュオンは違う。
こいつらはハッキリと人間を殺そうとする。
最もよく見かけるエヴィルであり、ダイも何度となく戦った経験がある。
使役するどころか、途中で戦闘が中断した経験も皆無。
出くわしたら最後、殺されないためには殺すしかない、災害だ。
「このおっきなわんちゃんは、けんまいし様が邪悪を断ち切ってくれたんだよ! お陰で良いわんちゃんになったんだよ!」
振り返ると、ティニーが何故か自慢げに見当違いの方向を指差していた。
たぶん、キュオンのいる方向を指しているつもりなんだろう。
いや、そんなことはどうでもいい。
ダイが気になったのは、彼女が口にした単語だ。
「いま、なんつった」
「だから、けんまいし様がわんちゃんの邪悪を断ち切ってくれたんだってば!」
邪悪を断ち切る技を使う者。
ダイは思い出した。
こんな辺境の地に来てまで、探し求めていた人物の名を。
「剣舞士、ダイス……」
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