398 ▽劣等感

「あの、もしよかったら、ご一緒していいですか?」

「そんなに改まらなくてもいいよ。どうぞどうぞ」


 ターニャはカバンを席に置くと、逸る心を抑えながらカウンターに注文をしに向かう。

 湯気の立つカップを持って席に戻ると、フォルテは何やらテーブルに図面を広げていた。


「お仕事ですか?」

「うん……ああ、ごめんね。テーブル占領しちゃって」

「いいえ! 私こそ、邪魔じゃありませんか?」

「大丈夫、って言うかむしろ大歓迎だよ。休憩時間に女の子とお茶できるなんて、ラッキー」


 女の子という言葉は、決してターニャだけを特別だと言っているわけじゃない。

 それはわかっているが、ターニャは顔がにやけるのを止められなかった。


「どうぞ」


 ココアと一緒に買ってきたクッキーを差し出す。


「お、いいの? ありがと」


 フォルテは礼を言ってそれを口の中に放り込んだ。

 彼が機嫌の良いことを確認した上で、ターニャは謝罪の言葉を述べた。


「あの、昨日はすみませんでした……」

「え、何が?」

「ジルが失礼なこと言いました。フォルテ君は、私をかばってくれただけなのに」

「ああ、そのことか」


 フォルテは少しも怒っていない様子だ。


「ぜんぜん気にしてないよ。あいつが人の話を聞かないのはいつものことだし、おれがカスターニャさんに怪我させちゃったのは事実だからね。こっちこそ、本当にごめんね」

「怪我はフォルテ君のせいじゃないです。それに、元はといえばジルが悪いんだから」


 それから……

 ターニャは少し間を置いて、フォルテの目を真っすぐに見ながら言った。


「私はすごく楽しかったです。フォルテ君と一緒に、その、輝動二輪の練習したこととか」


 最後は曖昧な言葉でごまかしてしまったが、それはターニャの偽らざる本音だった。

 あのまままっすぐ帰っていたら、あんな楽しい時間は味わえなかった。

 こんなふうに、積極的に一歩を踏み出す勇気も持てなかった。


 彼の運転する輝動二輪。

 その後ろに乗ったわずかな時間。

 あれは夢のようだったと思いながら、今日も変わらぬ日々を過ごしていただろう。

 ターニャはあの夜から、自分が少しだけ変わったような気がしていた。


「そっか、そりゃ嬉しいな」


 フォルテは照れたように頬を掻いた。

 そんな仕草が彼のクセなのかもしれない。


「それで、その、もしよければ……」

「また、輝動二輪に乗る練習したい?」


 思っていたことを先に言われ、ターニャは「あ……」と声を漏らした。


「すごく楽しそうだったもんね。カスターニャさんも、輝動二輪が好きなんだ」


 いいえ、好きなのは輝動二輪じゃなくて、あなたです。

 もちろん口には出さないが、そんな恥ずかしいセリフを思いついてしまった。

 ターニャは真っ赤になって俯いたが、フォルテはそれを別の意味に取ったのか、何故かしきりにうんうんと頷いていた。


「家が厳しいから輝動二輪にも乗らせてもらえないんだね。あんなちっちゃい機体でよければ、いつでも乗らせてあげるよ」

「あ、ありがとうございます!」

「ただし、お願いがあるんだけど」


 お願い?


 ターニャは身構えた。

 いったい何を言われるんだろう。

 もちろん、大抵の事なら受け入れるつもりだ。

 その、もし、普段している……妄想みたいなことでも。


「同級生なんだからさ、その、もっと普通に喋ってほしいんだ。ジルみたいにがさつにとは言わないけど、あんまりそうかしこまられると、逆にこっちが構えちゃうからさ」


 なんだ、そういうことか。

 変な想像をしていた事が恥ずかしい。

 ターニャは心の中で自分自身を叱りつけた。


「わかりました。じゃあ、私からもお願いしていいですか?」

「何?」

「私のことはターニャって呼んでください」


 ターニャは自分の本名が好きではなかった。


 発音や響きが気に入らないし、親や貴族会の知り合いから呼ばれるその名前は、どうしても貴族会のカスターニャ嬢というイメージが付きまとう気がするのだ。


 できるなら、友人たちのように愛称で呼んで欲しい。

 彼とも他人同士ではなく、もっと仲の良い関係になりたい。


「わかった。じゃあ、ターニャ」

「はい……じゃなかった、うん」

「今晩、九時に昨日の公園でどう?」


 ターニャはもう、嬉しさを表に出すことを抑えられなかった。


「うん、絶対に行くよ!」




   ※



 七時三十八分。

 ターニャは約束の公園にやってきた。

 風はまだ温かいとはいえ、日照時間はだいぶ短くなってきている。

 輝光灯の明かりがちらほらと灯り、宵闇がオレンジ色の夕焼けを西の空に追いやっていく。


 ターニャは一日の中で、この時間が一番好きだった。

 まぶしすぎる太陽が身を隠し、心地良い闇が支配する時間が始まる。


 約束の時間より、一時間半も前に家を出た。

 早くフォルテに会いたかったという理由もある。

 が、一番の理由は家にあまり好きではない客が来ていたからだ。


 貴族会の役員のおばさんである。

 親の知りあいが家にいる時は、大人として振舞うことを要求される。

 それが、ターニャには窮屈でたまらないのだ。


 時間まですることもないので、ベンチに腰掛けて誰もいない公園を眺めた。

 ふと、砂場の近くに、サッカーボールが転がっているのが目に入った。


 子供たちが忘れて行ったのだろうか?

 それを見ていると、嫌な気持が湧き上がってくる。

 先日の体育の時間を思い出してしまったからだ。


 ターニャは運動が嫌いだ。

 体育の授業はいつも目立たず適当にやっている。

 決してサボっているわけではないので、教師に目をつけられることもない。


 だが、団体スポーツとなれば参加しないわけにいかない。

 その中でもサッカーなんて、ターニャが最も嫌いなスポーツである。


 サボっているように思われない程度に走り回り、試合の中心から離れてやり過ごす。

 それだけでも、かなりの運動量になってしまう。


 ジルはいつも積極的に動いて周りを活気づけようとしている。

 へたくそなチームメイトに、それぞれチャンスを与える余裕もある。


 そして、試合の終盤。

 あと一分で終了というところで、それは起きた。


 不覚にも、ターニャはゴール前でノーマークになってしまった。

 何の脅威にならないと相手チームから見られていたようだ。


 そんな時に限って、ジルがピンチになった。

 あの瞬間、ターニャは確かにジルと目が合った。


 自分はノーマーク。

 ジルは一対四。


 これはさすがにパスをされるだろう。

 あの時、ターニャは覚悟を決めていた。


 しかし、ジルはターニャから視線を逸らすと、信じられないスーパープレーで自らシュートを決めてしまった。


 ジルはターニャが逃げ回っていたことを知っていただろう。

 ひょっとしたら、失敗させて恥を掻かせたくないと考えてくれたのかもしれない。

 それでも、まったく自分が彼女から頼りにされていないことが、少しだけショックだった。


「過保護なんだよね、ジルは……」


 呟きながら、ボールを拾う。

 ジルくらいの運動神経と明るさがあれば……

 周りを楽しませることも、独力でピンチを切り抜けることも、思いのままなんだろう。

 人柄も良く、人望もある。


 ナータもそうだ。

 剣闘部のエースで、同性でも目を見張るほどの美人。

 入学当初なんて、ターニャの唯一の得意分野だった勉強でも彼女には敵わなかった。


 そして、ルーチェも。


 喫茶店でジルに話したこと。

 あれは多少の作り話も混じっているが、全くの嘘ではない。

 貴族会につながりを持つターニャの所には、少なからず街の情報が入ってくるのだ。


 ルニーナ街に現れたエヴィルを倒したのは、天然輝術師と隷属契約スレイブエンゲージを行った輝士見習いの青年で間違いないらしい。


 その天然輝術師こそ、あのルーチェなのだ。


 名前まではっきり聞いたわけではない。

 しかし、街を出て行ったタイミングといい、彼女としか考えられない。


 荒唐無稽な現実に驚くよりも、あの子供っぽく平凡なルーチェまでが特別な人間だったということに、ターニャはひどく落胆を覚えた。


 つまらない劣等感。

 自分には何の取り柄もないことが悔しいだけ。

 手の中のボールを思いっきり投げつけたい衝動を必死で堪える。


 ターニャはボールを邪魔にならないよう、公園の端っこの方に転がしておいた。

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