397 ▽喫茶店にて

 ジルにとっても、ルーチェはかけがえのない友人だ。

 かつての中等学校時代、自分が道を踏み外そうとしていた時。

 ひどいことをしたのに、彼女はいつも晴れやかな笑顔を向けてくれた。

 抱えきれないほどの恩は一生かけてでも返すつもりだ。


 そのルーチェに、もう会えないかもしれない。

 そう思うとジルは悲しくて、涙が溢れてきた。


「ちょ、ちょっとジルっ!」


 気がつくと、ターニャがテーブル越しにジルの肩を掴んでいた。


「ターニャ、ごめん。あたし今までそんなことも」

「嘘だよ? 今の話は冗談だからね?」

「知らないで……え?」

「作り話に決まってるでしょ、もう。周りが見てるじゃない」


 涙をぬぐい、周囲を見渡す。

 学校帰りの中等学生や、近所の主婦たちが、こちらを見て笑いを噛み殺していた。


 正面に顔を戻す。

 ターニャは顔を真っ赤にして睨んでいた。


「どうして信じちゃうかなぁ……」

「えっと……嘘なの?」

「嘘だよ。決まってるじゃない。昨日のお返しに、ちょっとからかっただけ」

「は、はは」


 途端に恥ずかしさが込み上げてくる。

 ジルは照れ笑いしながら腰をおろした。


「はぁ、びっくりした……」

「ごめん。まさか本気にしちゃうとは思わなかった」

「いや……」


 ターニャを責めるわけにはいかない。

 よく考えれば、嘘だってすぐにわかるじゃないか。

 本気で信じた自分がバカだっただけだ。


 気分を落ち着けるため、ブラックコーヒーを一気にあおる。

 喉が少し熱かったけれど、恥を洗い流すにはちょうどいい。


「あれ、ジルとカスターニャさんじゃん」


 聞き覚えのある声がすぐ近くで聞こえた。

 ジルは飲んでいたコーヒーをのどに詰まらせ、むせる。

 苦しんでいるジルとは対照的に、フォルテは紅茶を片手に飄々と近づいて来た。


「あ、こ、こんにちは」


 ターニャが丁寧にフォルテに挨拶を返す。

 さっきのことが恥ずかしかったためか、頬が若干赤らんだままだった。


「こんにちは。ここ、座ってもいい?」

「どうぞ」

「なんでおまえがここにいるんだよ」


 ターニャの了承を得るとフェルテはジルに断りなく同じテーブルにつく。

 その気易い態度が気に障って、ジルは冷たい言葉を浴びせた。


「おれの仕事場、すぐそこなんだ。向かいの事務所」


 フォルテは通りを挟んだ場所にある建物の二階を指差した。

 窓の横の看板には「カルト建築」と書いてある。


「休み時間によく来るんだぜ、ここ。紅茶が美味いんだよな」


 どうでもいい、と思いながらもう一度コーヒーに口に含む。

 直後、フォルテのせいでまたしても吐き出すハメになった。


「あれ。ジル、おまえ泣いてたの?」

「ぶっ! ばっか、なに言ってんだ!」

「目が赤いぞ。花粉の季節でもないだろ」


 確かにその通りなのだが、フォルテごときに指摘されるのは、非常に悔しい。


「ゴミが目に入ったんだよ。いちいちそんなこと言うな」

「ふーん」


 フォルテはそっけない返答を寄越す。

 彼は馴れ馴れしくターニャに話しかけた。


「カスターニャさん、昨日はごめんね。家の人は大丈夫だった?」

「あ、はい。みんな二時には寝てたみたいで、簡単に入れました」

「そりゃよかった。ところで、怪我はもう大丈夫なの?」


 ぴくり。

 聞き捨てならない。

 ジルはフォルテを強く睨みつけた。


「おい、今のどういうことだよ」


 昨晩にジルがターニャと別れたのは十二時前。

 そのまままっすぐ帰れば、日付が変わる前には家に送り届けられたはずだ。

 仮に輝動二輪が使えず歩いて帰ったとしても、二時をまわるなんてことは絶対にない。

 しかも、怪我だって?


「あ、いやその……」

「輝動二輪から降りるとき、私がバランス崩して勝手に転んだだけだよ」


 ターニャはそう言ってフォローした。

 だが、フォルテの態度から、嘘であることは薄々と感じられる。

 なにやってんだよこいつ、まさか、事故を起こしたんじゃないだろうな。


「じゃあそれはいいけど、二時ってなんだ。何でそんなに遅くなった? おまえまさか、ターニャを連れ回して遊んでたんじゃないだろうな」


 フォルテは答えない。

 気まずそうにターニャの方に視線を向ける。

 どう言いつくろうかと相談しているような態度が気に障った。


 気がついたら、ジルは彼の胸倉をつかみ上げていた。


「おい、どうなんだよ!」

「いてて、やめろよ」


 フォルテはジルを振り解こうとするが、貧弱なこいつの力でどうにかできるわけない。

 道場も途中で辞めた根性なしに腕力で負けるものか。


「ちょっと、やめてよ!」


 と、横からターニャに腕に掴まれ、キツイ目で睨まれた。

 びっくりして力を緩め、その隙にフォルテはジルの手から逃れる。


「あの時間に帰っても親につかまって面倒になるから、近くの公園で時間をつぶしてたの。フォルテ君はわざわざ一緒に残ってボディーガードをしてくれてたんだよ」

「……そうなのか?」

「そ、そうだよ。おれがカスターニャさんに変なことするわけないだろ」


 言われてみれば、あり得る話だ。

 ターニャの親はいろいろと厳しい人である。

 そういう事情なら、放って帰ったりする方がむしろ無責任だ。


 さっき恥をかいた欝憤もあったのだろう。

 つい、手頃な相手に八当たりをしてしまった。

 ジルは軽率な行動を反省したが、フォルテなんかに謝るのはどうも癪だった。


「ターニャが言うなら信じるけど、おまえも誤解されるようなことはやめろよな」


 自分で送り届けるよう命令しておきながら失礼な話である。

 だが、これくらいの暴言はいつものことである。

 フォルテも苦笑いして誤魔化すだけだ。


「行こう、そろそろナータの買い物も終わってるころだろうし」

「あ、待ってよ」

「そうだよ。ゆっくりしていけばいいのに」


 ジルはターニャの手を引くと、フォルテとは目を合わせず、喫茶店を後にした。




   ※


 翌日の放課後。

 ターニャは一人でカルト通りに来ていた。

 ジルは部活、ナータはルーチェの家に空き巣をしに行った。


 邪魔者はいない。

 一度家に帰って、少しだけオシャレな服に着替えて、昨日の喫茶店へ。


 歩いている間、ターニャの心臓はずっとドキドキしっぱなしだった。

 そう都合良く今日も会えるとは限らないのに。

 偶然会えても、迷惑じゃないかしら。


 いろんな思考が頭の中を駆け巡る。

 やがて、目的の場所が見えてきた。


 どきり。

 その姿を見つけた途端、ひときわ大きく胸が高鳴った。

 テラス席、昨日ターニャたちが座っていた場所に、探していた後姿があった。


 ターニャは思い切って足を踏み出した。


 少しの勇気さえあれば、強くなれる。

 この前の輝士がフォルテに言った言葉。

 あれはターニャに向けられた言葉でもあった。


「あの、こんにちはっ」


 上ずった声で呼びかける。

 フォルテはこちらを振り返り、うれしそうな笑顔を見せてくれた。


「カスターニャさん! こんにちは。今日はひとりなの?」

「はい、買い物の帰りなんです」


 嘘だった。

 別に何も買っていない。

 普段ならひとりで喫茶店に寄ることもない。

 もしかしたら今日も、フォルテに会えるんじゃないかと思って来ただけだ。


 思った通り、彼はいた。

 昨日とおなじ時刻に、同じ場所。

 きっと今が職場の休憩時間なんだろう。

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