396 ▽彼女が街を出た理由

 ナータがいつまでも本棚から離れないので、ジルたちは喫茶店に行くことにした。

 本屋を出ると、さっきまで明るかった空が灰色に変わっている。

 ひょっとしたら雨が降るかもしれない。


 嫌な天気だ。

 傘は持ってきていない。


 通り沿いの馴染みの喫茶店へ。

 中等学校の頃はよくルーチェを含めた三人で来ていた店だ。

 南フィリア学園に入ってからは、めっきり立ち寄ることもなくなった。


 部活で忙しい毎日を送っていたせいもある。

 しかし、地元の喫茶店に来なくなった一番の理由は、最近じゃ買い物と言えばルニーナ街にまで足を延ばすのが当たり前になっていたからだろう。


 一度足が遠のけば、ぱったりと行かなくなるものだ。

 ナータは今でも利用しているらしいが、ジルがここに来るのは実に一年以上ぶりである。


 ジルはアイスコーヒー、ターニャはココアをそれぞれ注文。

 ついクセで砂糖ケースを余分に貰おうとして、大の甘党がいないことを思い出す。

 今はいない友人のことを思い出し、少し寂しい気持ちになった。


 テラス席に腰かけ、一息つく。


「ナータ、一生懸命だね」


 ターニャはココアに砂糖を入れながらそう言った。

 ルーチェほどではないが、彼女もそこそこの甘党である。


「そうだな。方向が間違っている気がしないでもないけど」

「うん、絶対間違ってるよ」


 彼女がやろうとしていることは明らかな犯罪である。

 とはいえ、別に物を盗んだりしているわけじゃないはずだ。

 たぶん。


 いや、やはり友だちとしては、ふん縛ってでも止めるべきだろうか……?


「しかし、ルーチェは今頃なにやってんだろうなあ」


 ルーチェは母親を早くに亡くしており父親と二人暮らしである。

 父のアルディ氏は高名な機械マキナ技術者で、研究所の所長を務めているらしい。

 ナータが不法侵入に成功しているということは、父親も家に帰っていないのかもしれない。


「ねえ、ルーチェが街を出た本当の理由って、知ってる?」

「本当の?」


 注文したクッキーが運ばれてくると、ターニャはそれを一つ手に取りながら質問をしてきた。


「輝士見習いのなんとかってやつの留学の付き添い……じゃないのか?」


 ジルはルーチェがとある輝士見習いの青年の国外留学に同行したと聞いている。

 フィリア市に勉強に来ていたその青年と仲良くなったのがきっかけらしい。


 本来なら夏休みの間には帰って来れるはずだった。

 だが先日、残存エヴィルの活性化による都市封鎖令が出てしまったため帰るに帰れず、今は隣のクイント国で封鎖が解けるのを待っているらしい。


「その様子じゃ知らないみたいね……」


 ターニャは声を潜め、こっそりと耳打ちをするように囁いた。


「ルーチェね、天然輝術師なんだって」

「てん……何?」

「天然輝術師。輝鋼石の洗礼なしで、生まれつき輝術を使うことができる人のことよ」


 ターニャが何を言っているのか、ジルにはよくわからなかった。

 輝術というのは、輝鋼石の洗礼を受けることによって超常現象を引き起こす技法のことだ。


 その用途は幅広い。

 戦闘目的の攻撃輝術を習得する王宮輝術師。

 薬草栽培や土木建築などの補助に術を利用する職業輝術師。

 他にも、いろんな種類の輝術師が存在する。


 攻撃輝術はともかく、基礎的な輝術なら試験をクリアすれば一般市民でも覚えられる。

 ナータもたしか一番簡単なライテルを使えたはずだ。


 しかし、生まれつき輝術が使える人間というのは聞いたことがない

 輝鋼石から輝力を借り、それを元に術に変化させるのが輝術の仕組みである。

 どんな簡単な初歩の術であっても、その使用には輝鋼石の洗礼を受ける必要があるのだ。


 いくらジルだって、その程度の一般常識はある。


「一学期の終わり頃さ、あの子、急に天然輝術師に興味を持ち始めたでしょ。私がルーチェに本を貸したのを覚えてる?」

「そういや、そんな話をしてたような……」


 夏休み前。

 あの時点で、ルーチェが洗礼を受けていないのは確実だ。

 もし試験に受かっていたら、あのお喋りなルーチェが自慢しないわけがない。


「で、ルーチェがその天然輝術師だと、なんで街を出ていくことになるんだ?」


 もしそれが事実だとしても、たいしたことではないとジルは考えていた。

 試験の必要がないのは楽だな……くらいの感想しかない。


「あのね」


 ターニャはことさら神妙な顔つきになった。

 何故かジルもつられて息を呑む。


「世界を救うため、新代エインシャント神国に向かっているんだって」

「……は?」


 目が点になった。

 新代エインシャント神国。

 そこは北西の果てにある輝術大国である

 なぜ、ルーチェがそんな所へ行く必要があるんだ?

 しかも、世界を救うためだとか……


「はは、なに言ってるんだよ」


 ジルはターニャが冗談を言っていると思った。

 しかし、彼女は真面目な表情のまま話を続ける。


「一学期の終わり頃に、立て続けに二つの大事件が発生したの覚えてる?」

「夏休み前の事件っていうと、あれか。ルニーナ街にエヴィルが出没したこと」

「そう、それ」

「……もう一つはなんだっけ?」

「輝士宿舎襲撃事件だよ」


 前者の事件は、まさにフィリア市中が大騒ぎになった大事件だった。

 ルニーナ街のど真ん中に、突然エヴィルが出現し、人々を襲ったのだ。


 エヴィルは駆け付けた輝士によってすぐ退治されたらしい。

 怪我人も出なかったそうだが、市民たちが受けた衝撃は計り知れない。

 ジルのバスケ部も安全のため夏休み前半の活動停止という被害を被ったくらいだ。


 後者はそれほど話題にはならなかったが、早朝の輝士宿舎に賊が侵入したという、わりと大変な事件である。


 二つの事件を関連付け、エヴィルを市内に招き入れた何者かが、逃亡のために輝動二輪を盗み出そうと輝士宿舎を襲ったという噂もあった。


 ジルの情報源はもっぱら同級生たちの噂話である。

 だから、真偽の程はよくわからない。

 あまり興味もないのだが。


「その事件が、ルーチェと何の関係があるんだよ」

「いい? 落ち着いて聞いてね」


 ターニャはココアを一口飲み、緊張しているジルを数秒じらしてから、驚くべきことを口にした。


「エヴィルを退治したのは輝士なんかじゃなく、あのルーチェなんだって」

「は……?」

「王国はルーチェが天然輝術師だって知っていて、わざとエヴィルを街中で暴れさたのよ。力に目覚めるよう仕向けるためにね。その思惑通り、彼女は天然輝術師の力に目覚めた。そして、その力を世界平和のために利用されているの。輝士宿舎が襲われたっていうのはエヴィル事件の犯人が市外に逃亡したって思わせるための狂言なんだって」

「は、はは」


 いくら作り話とはいえ、それはないだろう。

 だって、あのルーチェだぞ?

 あたしたちの友だちの。


「だって、ルーチェは一学期までは、普通に学校に通ってたじゃんか。どうして天然輝術師だってことが、国の偉い人とかにわかるんだ?」

「ルーチェのチェリーブロンドピンク色の髪、誰かに似ていない?」

「誰かって……」


 ジルの知る限り、あんな目立つ色の髪は知り合いにはいない。

 ピンクと言えば思いつくのは一人だけだが、それは知り合いでもなんでもない。

 なぜなら、その人は存在そのものが謎に包まれた、ある意味で伝説上の人物だからだ。


 いや、まさか……


「あの子ね、聖少女プリマヴェーラの隠し子なんですって」

「なんだって!?」


 ジルはテーブルを叩いた。


 なんてことだ。

 まさか、そんな秘密があったなんて。

 そういえば、教科書で見た聖少女の似顔絵は、どこかルーチェに似ていた。

 ほんの少しだけ、気のせいかもしれないけど、もしかしたら似てるようなそんな気がしないでもない。


 そうか……

 英雄の力を目覚めさせるためと考えれば、あの事件も頷ける。

 謎の犯罪者が街に潜んでいるとか、結界を超えてエヴィルが迷い込んだとかよりは、よっぽど信憑性がある……ような気がする。


 そこまで考えて、ジルはハッとした。

 英雄の娘としての力を見込まれ、エヴィルとの戦いに利用される。

 そんな大変な使命を背負わされたルーチェが、果たしてフィリア市に帰って来れるのか?


 そのまま王宮輝術師になる……くらいなら、まだいい。

 ひょっとしたら、手の届かない遠くに言ったまま、帰ってこないこともあるんじゃ?


 いや、それ以前の問題だ。

 エヴィルと戦うなんて危険すぎる。

 戦いの途中で命を落としてもおかしくない。


 このことは、ナータも知っているのか?

 知っているからこそ、あんなに落ち込んでたんじゃ?


「なんてことだ……」


 そんなことも知らず、いつか帰ってくるだろうと無邪気に信じていた自分が情けない。

 励ましの言葉も、ナータの耳にはさぞ薄っぺらく聞こえただろう。

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