EX2 入部 編 - grande sorella -

138 ▽自慢のお姉ちゃん

 朝の光が瞼の表面を優しく撫でる。

 カーテンの隙間からこぼれる穏やかな陽気がうつろな意識に飛び込んでくる。

 半覚醒した意識が再度の眠りに誘われる。

 この瞬間こそが一日でもっとも幸福な時間かもしれない。


 天使の誘惑のようなまどろみ。

 この至福の時はいつも美しくも無粋なメロディによって終わりを告げる。

 春休みの間はいくらでも惰眠を貪り気が済むまで夢の世界に滞在し続けることができたのに。

 中学卒業以来しばらく停戦協定を結んでいたこの起床戦争も、南フィリア学園に入学すると同時に再開された。


 入学初日はうきうきして眠れず結局は目覚ましに頼ってしまった。

 昨日は早めに学校に行かなければいけない用事があったし。

 楽しみや心配事があっても朝の眠気を完全に追い払うことはできない。

 夜に寝付けないならなおさらだ。

 けれど、今日は少し違う。


「んっ……」


 ベッドの中で伸びをする。

 振り上げた右手が目覚まし時計に当たって痛かった。

 普段なら怒り任せに払いのけるところだけど今日の彼は敵ではないので許してあげよう。


 伸びをした反動でベッドから飛び起きる。

 窓のカーテンをさっと開くとひときわ強烈な朝の光が目に飛び込んできた。

 窓を開いて新しい空気を部屋に招待する。


 温かな春風が気持ちいい朝だ。

 中等学校の頃、毎朝起きるのが辛いとジルに相談したら早起きも気持ちいいぞと諭されたことがある。

 その時は少しでも長く寝ている方が気持ちいいと反論したが確かに早起きもいいものだ。

 スッキリ目が覚めればの話だが。


 窓から顔を出して見下ろすと隣の家の庭で剣を振る女性の姿が見えた。

 波打つ金髪を振り乱す美しい外見に不釣り合いな無地の運動着姿。

 彼女は今日も朝の稽古に精を出している。


「ベラお姉ちゃん、おはよっ!」


 ルーチェは身を乗り出して彼女の名を呼んだ。

 こちらに気づいた女性は素振りをやめて顔を上げる。


「おはよう。今日は早いな」

「そっちこそ毎朝大変だねっ」


 お隣に住む二つ年上の幼なじみベレッツァ。愛称はベラ。

 物心ついた時から隣の家に住んでおりルーチェとは姉妹同然の関係である。


「そっち行っていい?」

「もうすぐ終わりにするから着替えてダイニングで待っててくれ」

「うん。わかった」


 ルーチェが小さく手を振るとベラは微笑を返した。

 窓を閉めてもう一度体を伸ばしてパジャマから制服にを着替える。




   ※


「お待たせ」


 稽古を終えたベラがルーチェの家のダイニングにやってきた。

 さりげない仕草でブロンドのウェーブヘアを払う。

 シャワーを浴びたばかりの彼女からはとてもいい香りがした。

 同姓の目から見てもうっとりするほど威厳と美しさを両立させたとびきりの美女である。


「ごはんできてるよ。パンだけど」

「ありがとう」


 トースターからパンを取り出してテーブルの上の皿に並べる。

 ベラは向かいの椅子に腰かけた。

 バターを手に取りパンに塗る。

 それだけの仕草が流れるように優雅である。

 日常の行動でさえも一枚の絵画のようだ。


「ベラおねえちゃん今日も……わたっ」


 ルーチェは口元に運ぼうとしたパンから卵焼きをずり落とす。

 ケチャップが手についてベトベトと気持ち悪い。


「大丈夫か?」


 ベラはくすくすと笑いながら布巾を手渡した。

 ルーチェはそれを受け取り手のひらにベッタリ付着したケチャップをぬぐった。


「今日も早朝から訓練してたの?」

「日課のようなものだからやらないと気持ちが悪いんだ」


 恥ずかしさをごまかすため何事もなかった風に会話を続ける。

 不思議なことに男っぽい言葉遣いも彼女の口から聞けば下品に聞こえない。


「すごいね。いつも何時くらいからやってるの?」

「ランニングも含めると四時半くらいからだな」

「四時半!?」


 驚いた拍子にまた卵焼きがすべりおちた。

 もうパンと一緒に食べることを諦めて指で掴んで直接口に入れた。


「ほんあにはやくはらよふえうふなあないへ」

「口に物を入れたまま喋らない」


 おこられた。

 飲み込んだ卵焼きが喉に詰まる。


「えほえほ。そ、そんなに早くからやって学校で眠くならないの?」

「ちゃんと必要十分な睡眠はとっているよ」


 ベラは当然のように答えて優雅にコーヒーを啜る。

 一時間半の自主トレを終えたばかりとは思えない。

 朝の弱いのルーチェには到底真似できないことだ。


「すごいね。これならまた今年も優勝だね」

「これくらいは皆やっているけどな」


 ベラは『剣闘』という剣術競技の部活で部長を務めている。

 その実力は男女問わずフィリア市剣闘界のトップクラスである。

 本職の輝士以外なら誰でも大会に参加できるため大人に混じって試合することもあるが、年上でもベラに敵う者はほとんどいない。

 一年のときから南フィリア学園剣闘部代表として国内大会に出場して過去二度の優勝を果たしている。

 現在の大会レベルでは彼女と互角に戦える選手は誰一人としていないくらいだ。

 今年も優勝は確実だと言われている。


 ファーゼブル王国には『偉大なる天輝士グランデカバリエレ』、通称『天輝士』と呼ばれる輝士が存在する。

 お隣のシュタール帝国の『星帝十三輝士シュテルンリッター』と同様に国内の輝士団の頂点に立つ最も優秀な輝士の称号である。


 ベラの祖父はファーゼブル王国の先代天輝士であり、早くに父を亡くしたベラは幼いころから祖父の下で血の滲むような訓練を受けてきた。

 そのため中等学校時代にはすでに輝士修行の過程を終了したことになっていて、南フィリア学園を卒業したらすぐに正式な輝士になるための試験を受けることになっている。


 剣闘を嗜む選手の中には輝士志望の人間も大勢いる。

 しかしファーゼブル最強の輝士である祖父に鍛えられ、中学時代に輝士修行を終えているベラに敵う経歴を持つ者はいなかった。

 実のところ現状でも本物の輝士よりも強いかもしれないとすら噂されている。


「でも今年も楽勝なんでしょ?」

「すごい新人が出てくる可能性もあるから油断はできないよ」


 ベラも一年生の時に初出場で優勝を飾っているのだ。

 どんな若い実力者が現れるかわからないのは彼女自身が一番よく知っている。

 もろもろの事情から大会出場を見送っていた選手もいるだろう。

 去年は破れた相手でもより強くなって戻ってくるかもしれない。


 まだ大会は四ヶ月も先だが侮るつもりはない。

 自分を厳しく律するベラのそんな意気込みが伝わってくる。


「がんばって。応援してるよ」


 それでもルーチェは今年もベラが優勝するだろうと確信していた。

 それほどにベラは去年の試合で圧倒的な強さを見せてくれたのだ。


「ありがとう」


 とびきりの美人で剣の腕も立ち、将来も半ば約束されている。

 おまけに成績も学校でトップクラス。

 男っぽい喋り方が逆に彼女の気高さを引き立たせている。

 ものすごいお隣さんを持ったものだとルーチェは誇らしい気持ちになりながら、カップにコーヒーを注ぎスプーンで砂糖を入れた。


「学園生活はどうだ?」

「うん。やっぱり中等学校とは違うなって思うよ」


 にこやかに返事をしながらルーチェはコーヒーに砂糖を入れた。


「なんていうのかな。高等学生としての自覚を持たなきゃいけないって気負っちゃう」


 輝工都市アジールの人間でも高等学校に進学できる人間は限られている。

 自分が平凡な人間に過ぎないと自覚しているルーチェは名門校に進学できたことに対する重みを感じながらコーヒーに砂糖を入れた。


「難しく考えない方がいいぞ。ありのまま学んでいけばいいだけだ」

「考えちゃうよ。私もはやくベラお姉ちゃんみたいなりたいもん」


 ちょっと無理そうだけど、と心で付け足しながらルーチェはコーヒーに砂糖を入れた。


「他人の生き方を参考にするより自分らしく生きるのが一番だからな」

「そうなんだけどね……あ、そうそう。懐かしい友だちにも会ったんだよ」


 ルーチェはコーヒーに砂糖を入れた。


「憶えてないかな。ナータって言って小学校の頃の同級生なんだけど」

「いや……誰だったかな」

「あ、そっか。ナータが転校してきたのはベラお姉ちゃんが王都に住んでた時だったっけ」


 ベラは何故か視線を窓に向ける。

 ルーチェは構わずコーヒーに砂糖を入れた。


「そうか。また仲良く出来るといいな」

「最初は大変だったんだよ。いきなりジルさんとケンカしちゃってさ、原因はよくわかんないんだけど……」


 コーヒーに砂糖を入れた。

 スプーンでよくかき混ぜて一口啜る。


「にが……でも、いつの間にか仲直りしてたみたい」


 シュガーカップを傾け直接コーヒーカップに砂糖を注ぎ込む。

 コーヒーが溢れそうになったところで止め、そのままスプーンで底の砂糖をすくって食べる。

 うん、おいしい。


「そ、それはよかったな……」


 なぜかベラは視線を合わせてくれなかった。

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