139 ▽楽しい学園生活
「いってきます」
時刻は八時十分。
ルーチェは支度を済ませると日中は誰もいなくなる家に鍵をかけて学校へと向かう。
ベラは自主トレだけでなく部の朝練にも参加しているので一時間ほど前にはすでに登校していた。
大抵の場合ルーチェが目を覚ます頃にはすでに家にいないから、今日みたいに一緒に食事を取ることの方が珍しい。
いくら好きなこととはいえ毎朝二時間半も早く起きて運動をするなんて。
とてもじゃないが私には無理だなぁ、とルーチェは思った。
ベラのような素敵な女性になりたい。
そう小さい頃からずっと思っているけど、そもそもの器量以上に物事に対する姿勢がまるで違う。
彼女は疲れるからなんていう理由で努力を惜しむことは絶対にしない。
これじゃいつまでたっても追いつける訳がない。
やっぱりお姉ちゃんみたいにはなれないよね。
自嘲気味に笑った後、むなしくなってため息をついた。
優秀なお隣さんがいるのは何かと助かるし自慢もできる。
相手がベラでは比べられることもない。
だけど時々わいてくる劣等感は拭いようもない。
まあ私は私。
これから頑張っていけばいいよね。
まだ高等学生になったばっかだもん。
「がんばるぞっ」
朝から落ち込んでいても仕方ないので、ルーチェは気合を入れて両手を振り上げた。
「あわっ!」
後ろから小さい悲鳴がした。
何事かと振り向くとかばんで顔を庇っているナータがいた。
「あ、ナータ。おはよう」
「おはよう……って、ルーちゃんどういうつもりっ」
「え、何が?」
「いきなり殴ろうとしたじゃない。あたしの何がそんなに憎いのっ」
「えっ、あっ」
どうやら振り上げた手が当たりそうになったらしい。
「ご、ごめんっ。そういうつもりじゃ……」
「あはは冗談よ。びっくりしたお返しにからかっただけ」
「え、あ、そう? でもごめんね」
これからは気合を入れる時は周りを確認してからにしよう。
「今日は歩きなんだね」
一昨日、ルーチェはナータが輝動馬車で通学をしているところを目撃した。
てっきりいつも輝動馬車通学かと思っていたのでので登校途中に会えるとは予想外だった。
ナータが住んでいるアパートは徒歩で通学するにはかなり大変な距離にある。
「そこの停留所まで乗ってたけどルーちゃんが歩いてるのが見えたから降りてきた」
「あっ、そうなんだ」
ここから学校まではまだ少し距離がある。
乗り続けていれば楽なのに、わざわざ会いに降りてきてくれたんだと思うと少しだけ嬉しい気持ちになる。
「でもよく私だってわかったね」
「遠くからでもわかるわよ。目立つから」
ナータはルーチェの髪を手で梳く。
柔らかな
さまざまな人種が入り混じるこの世界でもピンク色の髪は珍しい。
物心つくころにはすでに亡くなっていた母親譲りの自慢の髪である。
一時期はもの珍しさからからかいの対象になったこともあった。
でもナータは小学校の頃からこの髪を好きと言ってくれている。
小学校の頃の話だ。
ルーチェはクラスメイトに髪の色をからかわれたことがある。
怒りと悔しさのあまり髪を茶色の絵の具で塗りつぶそうとし、それを止めようとしたナータが変わりに絵の具まみれになったという事件があった。
ルーチェは泣きながら謝ったがナータは笑いながらひとこと「ルーちゃんの髪がきれいなままでよかった」と言ってくれた。
そんな過去を思い出してルーチェは心があったかくなってくる。
「えへへ」
「どうしたの?」
「ナータとまた会えてよかったなって」
ナータの顔が赤くなる。
「ばっ、なによいきなり。それはこっちのセリフ……じゃなくて、朝から恥ずかしいこと言わないでよ」
あれ。
予想外にナータが照れているのでなんだかこそばゆい気分になってしまった。
言われてみれば確かに面と向かって言うには少し恥ずかしいセリフだったかもしれない。
それでも再会できて嬉しいのは本当だ。
「ま、まあ。あたしもよかったわよ。新しい学校で知り合いがいると気分も楽だし」
照れているナータはなんだか可愛い。
久しぶりに会ってから大人っぽい部分や怖い部分を見ていたせいか余計にそう思える。
「そういえばナータは何で南フィリア学園に入学したの?」
「え?」
中等学校では家の事情で北の工業都市であるフィリオ市に住んでいたナータ。
彼女がわざわざ難関である南フィリア学園を受けた理由はなんだろう。
今までタイミングがなかったのでこの機会に聞いてみたいと思った。
「あ、そ、それはね……」
「やっぱり何かやりたいことがあって?」
南フィリア学園は名門と言われるだけあってさまざまな役職、特に公職を目指す人が多く通う。
裕福ではない家庭の子が入学するためには必死で難関の試験を潜り抜けるしかない。
「まあ、そんなとこ。まだ秘密だけどね」
「えらいんだね」
ナータといいベラといい、すごい人はやはり目標を持って努力をしている。
私も早く何かやりたい事みつけて頑張んなきゃ。
ルーチェは心の中で決心した。
その決心がいつまでも続かないということも知っていたけど。
※
「ルーちゃん、どこ見に行く?」
三時間目の授業が終わり、古代語の先生が教室から出て行くとナータはルーチェに声をかけた。
ルーチェは何のことかわからないという様子で聞き返してくる。
「え、何が?」
「仮入部。今日から始まるって担任が朝のHRで言ってたでしょ」
「ああ」
今日から一年生の仮入部期間が始まる。
新しく南フィリアの生徒となった新入生はまだクラブ活動の勝手がわからないだろうということで、正式な入部に先駆けての見学&一週間のお試し期間が設けられるとさっき担任教師が話していた。
「またボーっとしてた? それとももう入る部活決めてるの?」
「うん、一応」
ルーチェが説明に注意を払っていなかったのはすでに入るクラブを決めていて、どこにも仮入部するつもりがなかったかららしい。
もっともこの娘の場合はボーっとしていることは日常茶飯事なのだけど。
「どこ入るの?」
もしできるならルーチェと同じクラブに入りたい。
大体の見当はついているけれど確認のために聞いてみたのだが、
「うんとね、教育学研究部ひまわり」
「……は?」
想像と違った答に拍子抜けする。
「だから教育学研究――」
「じゃなくって、何? それ。合唱はどうしたの?」
小学校の頃からルーチェは歌が好きで地域の少年合唱団に所属していたこともある。
だからすでに決めているという部活は合唱部だと思っていた。
「学外での活動がメインだからあまり有名じゃないんだけどね。近くの幼稚園とか子供会のイベントとかに参加してお手伝いしたりするの。もちろんお金はとらないよ」
「つまりボランティアみたいなもん?」
「自分たちの勉強にもなるし、子どもたちが可愛いんだよ」
ルーチェは子供好きなのである。
勉強やスポーツよりも小さな子供たちと一緒に遊ぶことが楽いらしい。
「ターニャのお母さんがこの学校の卒業生で、ひまわりを作った初代会長さんでね。中学の頃からよく手伝いを頼まれてたの。私も南フィリアに進学する予定だったし最初は軽い気持ちで参加したんだけど、もう子どもたちが可愛くって!」
その時の事を思い出しているのかルーチェの瞳はきらきらと輝いている。
「先輩たちにも気に入られちゃったし、それからも何度かターニャと一緒に活動に参加してたから入学したら正式に入会しようって決めてたんだ」
「ふーん、なんかすごいね」
「そんなことないよ。だから仮入部はしないつもり」
「そっか」
少し残念だった。
もし決まっていなければ一緒に仮入部をして廻るつもりだった。
合唱部なら入ってもいいかなと思っていたけど正直言って子どもの相手をするのは苦手だ。
「もしよかったらナータも一緒にやってみない? 楽しいよ。活動がないときはみんなでお茶とかしながらお喋りばっかりしてるし」
「遠慮しとくわ。あたし、そういう慈善事業みたいなのって得意じゃないし」
「そう」
無理に誘うこともないと思ったのかルーチェはあっさりと引き下がった。
いやその、もうちょっとしつこく勧誘してくれたら考えてあげてもよかったけどっ。
「何の仮入部に行くつもり? やっぱり合唱? 中等学校の頃は続けてたの?」
小学校時代はルーチェの勧めでナータも地域の少女合唱団に入っていた。
あの頃は本当に楽しかったしナータ自身も歌うのは好きだったが、
「私の行ってた中等学校には合唱部ってなかったのよ」
「南フィリアには合唱部あるから入ってみれば? せっかく上手いのにもったいないよ」
ルーチェはそういってくれるが、はっきりいって彼女には敵わないとナータは思っている。
歌っているときのルーチェはガラッと雰囲気が変わる。
本人に自覚はないようだがまるで音楽の女神のように聴いている人を幸せにしてくれる。
一緒ならともかくいまさら一人で歌いたいとも思わない。
「やっぱいいわ。もう帰宅部でもいいかなって思ってる」
「えー、どっか入っといた方がいいよ絶対。何もやらないなんてつまんないよ」
「でも別にやりたいこともないしね」
「運動部とかは? ナータ運動神経いいから、きっとなにやっても……」
「よっ、帰んないの?」
大きいスポーツバックを肩から下げたジルが陽気な声で会話に入ってくる。
「あ、ジルさんちょうどよかった。今ナータが何か部活入りたいって話してて」
「へえ、なにやんの?」
「いやまだ何かやるって決めたわけじゃないんだけど」
ケンカから仲直りしてからジルとは気軽に話し掛け合える間柄になっている。
「ジルさんはバスケ部の期待の新人なんだよ。中学の頃からすごかったんだから」
「バスケ? あんたが?」
「悪いかよ」
「格闘部とかじゃないの?」
「そっちは家の話。学校でまでやるつもりはないから」
「ナータ、ジルさんの家が格闘道場だって知ってたの?」
つい三日前に会ったばかりだが、ジルのケンカの強さはこの眼でしっかりと見ている。
格闘道場の娘と言われればなるほどねと納得するくらい凄かった。
「あれは凄かったわ。トロルかと思っちゃった」
「えっ?」
「おいっ」
冗談のつもりだったがジルは思いのほか慌ててルーチェに弁解する。
「違うからな。別に暴力をふるったわけじゃないから」
「あら。よくそんなことが言えるわね。あの夜は実際に――」
「そういうおまえこそすごかったよな? 主席入学の優等生がチンピラ相手に鉄パイプで――」
「だーっ! 余計なことは言うなっ!」
「何なに? 鉄パイプって何のこと?」
「なんでもないから、なんでも!」
今度はナータが慌てる番だった。
中学時代の荒んだ過去は絶対にルーチェにバレたくない。
勝ち誇ったように腕を組んでいるジルの隣では、いつの間にかカバンを持ったターニャがニコニコ微笑んでいた。
入学四日目。
ナータはすっかり彼女らと打ち解け、早くも高等学校生活を楽しいと思えるようになっていた。
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