92 雪山放置

 とすん。


 あれ、何この音。

 ほっぺたが痛い。肩も痛い。

 先生の足が目の前にあった。

 もしかして私、倒れてる?

 体を支え起き上がる。

 立ち上がった途端に膝から力が抜ける。

 崩れ落ちるみたいにへたり込んでしまう。

 世界が、まわる。

 あはは、なにこれ。変なの。まるで酔っ払ってるみたい。キモチい――


「おえっ……?」


 突然の吐き気。

 頭が痛い。

 腕に力が入らない。


「おえええっ」


 やだ、何やってんの私。

 みっともない。

 ティッシュ、ハンカチ。

 あれ、そういえば持ってくるの忘れた。

 ごめんなさい、先生。

 拭くもの貸してください。

 あと服、着替えてきていいですか?

 あれ、先生……どこ行った?

 顔を上げる。

 ふらついて視界が定まらない。

 フラフラする。

 頭がグラグラ、ガンガン。

 周りを見回す。

 岩ばっかり、だれもいない。

 先生、どっか行っちゃった。

 寒い。

 ひどい風邪をひいたときみたい。

 お腹の中が冷えてくる。

 反対に首から上は異常に熱い。

 耳が熱い。ほっぺが痛い。


 私、どうなっちゃってるの?

 とにかく服を拭かなきゃ。

 ふくをふく。みっともないし、キモチ悪い。

 全身の力を振り絞って立ち上がる。

 定まらない足元。

 気をつけながら前に進む。

 どっかに座らなきゃ。


 ごち。

 何の音? やだ、なんか口元がぬるぬるする。

 手で拭ってみると、べっとりと赤い液体が付着していた。

 血? 鼻血? やだなあ。

 いつの間にかまた倒れてる。

 あはは。ズキズキ。

 なんだろ、頭いたいよー。

 お腹ごろごろ。やばい。

 これ、やばい。

 ああでも、これは修行なんだ。

 辛いから修行。頑張って耐えなきゃ。


 いつまで?

 先生なんて言ってたっけ?

 明日のこの時間までとか言ってた。

 二十四時間? 嘘でしょ?

 丸一日もこんな状態なの?

 死ぬって、絶対。

 やめよう。

 こんなの絶対無理だよ。

 ごめんなさい、やっぱり無理です。

 私、輝術師なんてなれません。

 だからもう終わりにします。


 ねえ、聞いてます?

 やめるって言ってるでしょ。

 もう終わりだから出てきてよ。

 っていうか助けて。

 本当に死んじゃうよ。


「おえっ……」


 叫んだ。声にならなかった。

 吐瀉物。生暖かい。

 口からが溢れる。汚いきたないキタナイ。

 洗わなきゃ。がんばって立ち上がらなきゃ。

 頭がくらくら。あれぇ?


 あはは。どうしたんだろ。

 またキモチよくなってきちゃった。

 浮いているみたい。力が抜ける。

 どんどん空に昇っていく。


 わかった。これ夢なんだ。

 そもそも現実的じゃないよね。

 私が聖少女の娘とか、伝説の大賢者さまの修行とか。

 きっと今頃教室で居眠りしてて、目が覚めたらまたナータにからかわれるんだ。

 あれ? いまは夏休みだったっけ?

 じゃあまだベッドの中だ。

 起きたらパンを食べて、友だちを誘って遊びに――




   ※


 ……あれ?

 天井がやけに低い。

 ふかふかのベッドで寝ているようだけど、私の部屋じゃない。

 ここ、どこだっけ?

 なんか前にもこんな事があったような……

 がばっ。


「あ、そうだ。私、修行をしてて……」


 グレイロード先生に何かをされて。

 頭がボーっとして、訳わかんなくなっちゃって。

 意識を失うこともできなくて、狂ったような時間がずーっと続いて。

 今はその時の感覚ははっきりと思い出せない。

 けれど、辛かったのと、物凄く長い時間そうしていたのは覚えている。


 それで、どうなんたんだっけ?

 いつの間にかこんなところにいるけど、雪山から帰ってきた記憶はない。

 いま何時だろう。

 起き上がろうとした時、部屋の木戸が開いた。


「ルーチェさん、気がついたんですか!」


 フレスさんが氷と手ぬぐいを抱えて立っていた。

 ずいぶんと顔色が悪い。


「あ、フレスさん。私……」

「覚えてないんですか? 真っ青になってたんですよ! あの女の人に運ばれてきたときには、もうダメかと――」

「女の人……?」


 はて?

 首をかしげていると、戸から見知った顔が覗いた。


「やっ、元気になった?」

「先せ……ファースさん!」


 ポニーテールの青い髪に、人のよさそうな笑顔。

 彼女は自称ファーゼブルの女輝士ファースさん。

 その正体は輝術で変装したグレイロード先生だ。


「心配したのよ。ジュストに指令を届けようとして来てみたら、毒にやられて倒れてるあなたを発見したんだもの。蛇にでも噛まれたの? 気をつけなきゃだめよ」


 説明的な口調とともに、物凄い顔で私を睨みつけてきた。

 瞳が「口裏を合わせろ」と無言で圧力をかけている。

 どうやらそういう設定にしろってことらしい。

 他の人には正体を隠したいようだ。


「お知り合いなんですか?」

「前に仕事を手伝ってもらったの。あなた、この娘に何か食べるモノを作ってあげて。栄養のあるものがいいわ」

「は、はい」


 フレスさんがタオルを置いて出て行く。

 ファースさんは椅子を引っ張り出してきて私の前に座った。


「……私、どうなったんですか?」


 体がだるい。

 生きて帰ってこれたってことは、途中で助けてもらったんだろう。


「そうね。長いことじたばたしてたけど、二時間くらいで気絶したわね」


 ずいぶん長く苦しんでた記憶があるけれど、実際にはそんなものなんだ。


「私、全然ダメでしたか」


 先生は「見込みがないなら修行はその場で終わり」って言った。

 だとすれば、一日持たずに脱落した私はこれっきりなんだろうか。


「そうね……まあ、よくはなかったけど。悪くもなかったわ」

「悪くなかった?」

「そうよ。気絶してたけど、一応は二十四時間生き延びたしね」


 えっ、ってことは……


「私、二十四時間ずっと雪山で放置されてたんですか!?」


 よく死ななかったな私!


「呼吸はしてたみたいだから、助ける必要もないかなって」


 助けてよ! って、それじゃ失格になっちゃうのか。


「あれは肉体の強度を試すテストじゃないの。高密度の輝力を無理矢理注入して、二十四時間ビクともしないなんてありえないわ」

「じゃあ何の修行だったんですか」

「輝力に慣れる練習よ。輝術師になって日の浅いあなたは輝力の放出口が極めて小さいの。だから無理やり押し広げた。下手したら死ぬけど、上手くいけば簡単に輝力の放出量を増やせるのよ」


 つまり修行っていうより、きっかけを与えたみたいなもの?

 って、おい。


「下手したらは死ぬってなんですか!?」


 そんな危険なことをやるなら始めから言っておいて欲しかった!

 ひょっとしたらあのままあの世行きだった?

 ゾッとするなんて表現じゃ到底足りない!


「いいじゃない。無事に生き伸びたんだから」

「そういう問題じゃないです!」

「結果よければそれでよし」

「どうしたんですか、大きな声を出して」


 いつの間にかフレスさんが部屋の前に立っていた。

 なんだかいい匂いがすると思ったら、暖かいリゾットを作って運んでいた。

 ぐー。


「あら。よっぽどお腹が空いているんですね」


 そういえば、先生の言うとおりなら丸一日なにも食べてないんだ。


「お腹の中からっぽのはずだから。たっぷり食べて元気付けなさい」


 はっ。


「ファースさんっ、私、そのっ、服とか、いろんなところが」

「心配しないでいいわよ。ちゃんと洗っておいてあげたから」


 そ、そういう問題じゃなく……

 っていうか、洗ったって、先生って一応男の人なのに!


『心配しないでいいわよ。別に見てないから』


 突然、頭の中に声が響いた。びっくりしたけど彼女は何も喋っていない。


『いいから今は休め。今晩からは本格的に輝術の特訓に入るぞ』


 次に聞こえたのは男の人の声。

 変身していない先生の声だった。

 声に出さないで会話をする術とか、そういうのかな。


『本当に辛いのはここからだぜ。覚悟しておけよ』


 思わずスプーンを落としてしまった。

 フレスさんが心配して声をかけてくれているようだけど、その声も耳に入らない。

 うう。もう修行、やめちゃおうかなぁ……

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