28 魔犬
フィリア大通り周辺は大混乱に陥っていた。
「なんだよあのバケモノは!」
「誰か、誰か衛兵を!」
「避難しろぉ! 建物の中へ逃げ込め!」
「なにがどうなってるの……」
「ひ、人殺しっ!」
野次馬たちの叫び声が折り重なる。
町中に突然現れた異形の魔物。
全身を覆う紫と白の斑な体毛。
濁った二つの灰色をした瞳。
まっ赤に避けた口は刃のような牙を生やしている。
「ウオオオオオオオォォォーン!」
獣の咆哮。
大まかなイメージは犬。
ただしとてもじゃないけどペットにはできそうにない醜悪な見た目。
左の耳は大きく垂れ下がり、反対側の同じ部分には何かの冗談のように人間の手が引っかかっている。
見ているだけで吐き気がしてくるほどだ。
「ウゥゥォォ」
体格は食い破られた元の男の三倍近く。
魔犬は伸びをするように巨体をもたげると、丸太のような足でお腹を刺されて倒れていた青年の体を踏みにじった。
「ぎょあああああっ!」
骨の砕ける音とともに青年が絶叫を上げる。
他の倒れた人たちは異変に気付いて這ってでも逃げようとする。
輝光灯の下、信じられない恐怖の光景が明々と映し出されていた。
「何なの……?」
私を含めほとんどの人が現状を理解できずに呆然と立ちすくんでいる。
ジュストくんだけが大声で警告を飛ばしていた。
「あれに近づくな! 急いで遠くに逃げろ!」
叫びながら剣を構えるジュストくん。
握った柄を頬に付け切っ先を魔犬に向ける。
さっきまでと違う構え。
「せいっ!」
「ウゥォ」
目にも留まらない速さで突きを繰り出し、その一撃が魔犬の眉間を打った。
けれど魔犬の皮膚は貫けない。
痛みを感じている様子すらない。
何事もなかったかのようにその巨体をゆっくりと前進させる。
「ウォォォウ!」
「くっ」
魔犬は腕を振り上げ鋭い爪をジュストくんめがけて振り下ろした。
彼はその攻撃を体を捻って紙一重でかわす。
地面を数度転がり飛び起きるように身を起こしながら叫ぶ。
「今だ、走れっ!」
地面を這っていた青年たちが起き上がってその場から離れていった。
そっかジュストくん、あの人たちを逃がすために突っ込んで行ったんだ。
「ウッ、ウウォゥ」
再び魔犬が腕を振り下ろす。
ジュストくんはそれを剣の腹で受け止める。
けれど威力は殺しきれずジュストくんはバランスを崩して膝をつく……
と見せかけて回転しながら敵の攻撃を受け流した。
「はぁあああああっ!」
「ウォゥ」
魔犬の首筋に遠心力をこめた一撃を打ち込む。
獣が絶叫を上げて地面に倒れる。
やった! やっつけた!
「ジュストくん、すご――」
私は彼に駆け寄ろうとして、
「来るなっ!」
思わず足を止めた。
「逃げろと言っただろ! 死にたいのかっ!」
「で、でももうやっつけ……」
「あの程度で倒せるわけがない!」
「ウォ、ウォォゥ」
見ると魔犬は地面でモソモソと蠢いている。
痛みで苦しんでいるというよりは立ち方を知らない赤ちゃんのように見える。
「生まれたばかりで動きが鈍い今がチャンスだ。時が経てば見境なしに暴れ始めるぞ!」
そ、そんなこと言っても。
「な、なんなの、アレは?」
「あれは『キュオン』というエヴィルだ」
「エヴィルって、だって、そんなの十五年前にみんなどっか行っちゃったはずじゃない。それにあの人、隔絶街の……人間じゃなかったの?」
「正確にはその複製体。あいつがさっき飲んだ薬は魔動乱の時に開発された悪魔の薬だったんだ」
「あ、悪魔の薬?」
聞き返す私にジュストくん早口で説明する。
「かつてエヴィルの力を人間に取り込むという狂気の研究があった。だが膨大な輝力を凝縮させて完成したそれは、見ての通り人の身体をエヴィルそのものに作り替える薬だった」
「そんなものがどうしてこんなところに!」
「わからない……しかし現実にエヴィルが現れた以上は放っておけない」
彼は自分を奮い立たせるように呟き、
「衛兵が……いや、輝士が来るまで僕がこいつを食い止める! だからルーは早く避難しろ!」
そして起き上がろうとしているエヴィルに向かって飛び掛った。
む、無理だよ。だってエヴィルなんだよ。
普通の武器や道具じゃ決して対抗することができない。
知恵があるのかもわからない、殺戮と破壊を振りまくだけの生命。
いくらジュストくんが強くても暴漢を相手にするのとは違う。
まともに戦えるような相手じゃない!
けど。
「たっ!」
ジュストくんの剣が唸る。
攻撃がエヴィルの胴体に命中した。
「ウォゥ」
エヴィルが無造作に腕を振り回す。
ジュストくんはそれを紙一重でかわしては次々と攻撃を繰り出していく。
……凄い。
まだ動きはぎこちないけれどエヴィルの動きはかなり速い。
ジュストくんはそれよりもさらに俊敏な身のこなしで敵の攻撃を避けながら確実に反撃を繰り出していった。
攻撃がまともに通じる相手ならもうとっくに勝負はついているはず。
それでもジュストくんの攻撃はダメージを与えられていない。
対エヴィル専用じゃない武器、それも強度の低い胴の剣でいくら叩いたところで鋼の皮膚を持つ魔獣にとっては痛くもかゆくもない。
「はぁ、はぁ……たっ! てやっ!」
「ウォォゥ」
ジュストくんは奮闘を続けている。
正規の輝士が来るまで持ちこたえさせるために。
街はまだまだパニック状態。慌て騒ぐ人たちも周囲にいっぱいいる。
いまジュストくんが戦うのをやめたらこいつは他の人を襲う。
そしたらどれだけの被害が出るかわからない。
なんとか戦えるジュストくんに頼るしかない。
けど黙って彼が戦うのを見ているしかできないのは……
あまりにも……つらい。
「やあっ!」
掛け声と共に横薙ぎの一閃。
攻撃はモロにエヴィルの顔面を撃った。
次の瞬間、ジュストくんの動きが止まった。
……?
ゆらり。
ジュストくんがわき腹を押さえて後ろへとよろける。
……血。
抑えている部分から真っ赤な鮮血が吹き出した。
「ウォォゥ」
どくん。
心臓が高鳴った。
爆発しそうなくらいにはっきりと。
血……怪我……死んじゃう。
ジュストくんが、死んじゃう。
私の心配をよそにジュストくんは再び剣を構えて突撃を試みる。
「はああぁぁ……っ」
その動きは明らかに精彩を欠いている。
対するエヴィルは体が慣れ始めたのかさっきよりも敏捷になっていた。
何度も打ち込んだジュストくんの攻撃によるダメージは……全く見られない。
騒ぎが起こってからもう五分くらい経っている。
なのに、なんで衛兵も輝士も来ないの?
このままじゃ本当にジュストくんが死んじゃう。
どうすればいい?
私はここでこうやって見ているしか出来ないの?
私は――
「ウォゥ!」
「ぐあっ!?」
巨体を走らせエヴィルが体当たりを仕掛ける。
ジュストくんは直撃を受けて吹き飛ばされた。
倒れた彼にエヴィルがゆっくりと近寄っていく。
「や、やめてっ!」
思わず大声で叫んだ。
エヴィルがこちらを向く。
時間が止まる。
無機質な灰色の瞳に覗き込まれ身の毛がよだつほどの恐怖が駆け巡る。
「ウゥォゥウ……」
隔絶街の男たちに襲われかけた時とは全く違う。
痛い目に会わされるとか、なぶりものにされるとか。
そういう次元の恐怖じゃない。
殺される。
他には何も考えることができなかった。
エヴィルが近づいて来る。
それさえも現実感のない別の世界の出来事のよう。
気がついたときエヴィルは……
魔犬キュオンは私の目の前に立っていた。
「ウゥォォ……ウォゥ!?」
その腕が振り上げられる。
瞬間、巨体が揺らいだ。
ジュストくんが横から剣を振るって魔犬の爪を大きく打ち付けたからだ。
続けざまに懐に飛び込み喉元を一突き。
さすがに効いたのかキュオンはよろけてふらふらと後ろに下がっていく。
「大丈夫かっ!」
「あっ、えっはいっ!」
ジュストくんは庇うように私を背中で隠した。
いつまでも逃げずにモタモタしていたことを怒られるかと思ったけれど、ジュストくんの声は優しかった。
「ごめん、こんなことになって」
「そ、そんなっ」
「もう少しだ、もうちょっとで騒ぎを聞きつけた輝士がやってくる。やつが苦しんでいる今がチャンスだから走って逃げて」
「だ、だったらジュストくんも逃げようよ! これ以上戦ったら本当に死んじゃう!」
振り向いたジュストくんの顔は青ざめていた。
それでも優しい笑顔は変わらない。
「死なないよ。言っただろ、剣だけは自信があるって」
「でもそんな大怪我までして」
「君が……守るべき人が後ろにいる限り、二度と逃げ出したりしない……そう誓ったんだ」
とくん。
心臓が大きくはねた。
この人を絶対に死なせたくない。
そう思った瞬間、私の中から何かが沸き上がってきた。
――死なせたく、ない?
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