第2話

―――僕らは何処にも行けない。

それはきっと、間違いない事だと思う。

社会の荒波に揉まれてきたわけではないけれど、今年で高校生活を終える身だ。この歳になれば目を逸らそうとしても、自分の限界であったり身の丈が否応なしに見えてくる。そして残念な事に現実という壁は今より幼かった僕が想像していた以上に高く聳え立っていた。


ふと思い立って小学校の卒業文集を捲ってみると、僕の将来の夢の欄には宇宙飛行士だなんて書かれていた。何故そう書いたのか今となっては忘却の彼方だが、書いた当時も大した考えがあったわけではないと思う。ただなんとなく、テレビで取材を受けていた日本人宇宙飛行士をカッコいいと思ったからとか、その程度のものだろう。

そんな適当な考えで宇宙飛行士になれるはずがないだろうと今では思うけど、当時の僕はなれると思っていたのだろう。それぐらいに小学生の僕は無敵だった。

 

けれど今となってはなんでもできるような万能感も無くなって、残るのはちっぽけな等身大の自分だけになっていた。

流石に義務教育を終え、高校生の最終学年になる頃には自分がどの程度の人間なのか流石に理解できてくる。

僕はどの程度の人間で、どの程度価値があるのか。

僕を塗り固めていた強固な鎧は、現実という猛攻によってその殆どが無残にも剥ぎ取られていた。

かつての思い出に残る将来の自分像と今の矮小な姿。

それはどこまでもかけ離れていて、ありのままの自分を見つめると溜息を吐きたくなるようになる。

けれどだからといって情けない自分を変えようという努力をすることもなかったし、そんな熱もなかったのだ。

将来の夢が朧げにすら見えていないから、そもそもどんな努力をすれば良いのかという根幹的な事が定まっていなかったということもあったし、今の現状に満足感はなくとも、大きな不満があるというわけでもなかったから。


それなりに勉強をして、残った時間は見知った友人達とダラダラと過ごす。

それが悪徳とも堕落とも思わなかったし、実りはなくとも、それはそれで充足した時間だったし、それも一つの青春の形なんだろう。

きっと世間には僕のような人間は多いのだと思う。同い年にも拘わらず芸能界やスポーツ界で華々しい活躍をしているのをワイドショーやバラエティ番組で見て、僅かな嫉妬に苛まれながらも、何も行動しないような人間は。


このまま適当に高校生活を過ごし、特にやりたいことも見つけられず、大学に進学して、聞いたこともないような何処かの企業に就職するのだろう。居酒屋で同僚と安い給料と古臭い上司の愚痴で盛り上がる、そんな光景がありありと目に浮かぶ。

―――それは予感ではなく、確信だ。


僕たちは人間で、鳥のように何処かに羽ばたけるような翼があるわけではない。亀のような鈍足でゆったりと歩いていくしかない。だから列車の車窓から眺める景色のように、急激に何かが変わるようなこともない。僕がこれから進んでいく道はどこか懐かしく、見知ったような風景が広がっていく。

僕等は、何処にも行けない。

それなのに―――

「……大丈夫か?あんまし、気分良くないか?」

 野太い、しかし温かみのある声に僕は思考の渦から現実世界に引き戻された。

僕が座る机の対面には熊を連想させる横にも縦にも大きい中年男性の姿。学年主任教師でもあり、僕のクラス担当でもある五十嵐先生が座っている。


時刻は授業が終わって暫くたった夕方の頃で、カーテンの隙間から漏れる夕陽の光が細長い線を作って教室に境界線を引いている。

野球部か将又ほかの部活動生か、ヤケクソのような気合の入った声が遠くに聞こえて、二人しかいない教室の中にも虚しく響いている。進路調査の二者面談中に、僕は意識をどこかに飛ばしていたらしい。

「疲れとるようなら、明日に回すか?」

 訛りがある気遣う声に、僕はすみません大丈夫です、と呟くように言った。

僕の言葉を額面通りに受け取った訳ではないだろうが、五十嵐先生は話を続けた。

「……そうか、分かった。話を戻すが、前書いてもらった進路調査票の第一希望は大学進学―――推薦やったが、何か変更とかあったか?」

 高校三年生になる直前に、葉書サイズの進路調査票を受け取ったのを思い出す。

友人達と馬鹿な話をしながら書いたものだから、内容はよく覚えていない。適当に大学進学、とだけ書いたことだけが記憶に残っている程度だ。

それに僕には将来というものがよく分からないでいた。

「いえ、特には」

「第一希望は変わらずか。志望大学は?」

「まだそこまでは。取りあえず学費の問題もあるので国公立に行こうかとは思っています」

 家の家計を慮ってというわけではないが、一般に学費は私立よりも国公立の方が安い。だからきっと、僕は国公立を志望しているのだと思う。我が事ながら曖昧だ。

「国公立。ほんで志望学部は?一応、法学部と経済学部書いとるけど、第一志望としてはどっちか決まったか?」

「そうですね……」

 数か月前はそう書いたが、率直に言ってどちらも大して興味があるわけではない。きっと、二つの学部とも所謂潰しが利くということで挙げたのだろうと他人事のように思った。それにもっと言えば大学進学すらも真剣に検討しているわけじゃない。大学くらいは行っておけ、という父さんの言葉を受けてなし崩し的に希望しているに過ぎない。

……多分、数カ月前の僕なら疑うことなく大学進学を志望していると思う。僕が通っているのは県下でもそれなりレベルの進学校で、就職する生徒は殆どいない。

昨今では大学進学率も伸び就職の幅に大きく左右されることを考えれば、とりたて特技もない僕のような人間は大学進学が安牌なのは違いない。

だからきっと僕の人生を豊かにするには取りあえず大学に進学することは正解なはずだ。

……でも、僕は大学に行ってまで何をしたいんだろう。

なんとなくで学ぶ意識もなく適当に大学へ行くのは、お金を出してくれる父さんに対する背信行為ではないだろうか。

父さんにそんな事を言ったら、考え過ぎだなんて笑われてしまったけれど。

「……まだそこまでは」

 今の僕はそんな苦しい返事を返すので精いっぱいだ。

何せ自分というものがどこにもない。僕は自分が何をしたいのか、どうなりたいのか分からない。ちょっと前まではこんな事、一々考えもしなかった。けれど、一月前に起こったとある出来事を切っ掛けに僕は自分の人生とは、と病に罹った中学生のような事を考えるようになっていた。

クリップボードに挟まれている書類に何やらガリガリとボールペンで書きこんでいきながら、五十嵐先生は呆れたように溜息を吐いた。いや真実呆れているんだろう。少なくとも僕が先生の立場だったら呆れている。

「大学、行くんだろ?」

 確認するように五十嵐先生はそう言った。

「……はい」

 咎めるような視線から逃げるように―――真実逃げているのだが――視線を逸らして小声で首肯する。

「んー、理由はないけど取りあえず大学っていうのは珍しくないし、悪いことじゃない。俺等の時とは時代が違うしな。それに大学に入ってから打ち込めるモンが見つかるかもしれんし、なんだかんだで日本は学歴社会やしな。大学に行けば取りあえず就職の幅も広がる」

 教師としてはあんまりこういう事謂いたくないんやけどなあ、と不本意そうに続ける。

「お前は成績も内申も良い方だし、十分指定校推薦を狙える水準にあると思う。まあ校内選考が入るから、確実な事は言えんけどな。でも推薦っていうのはうちの高校の代表。中途半端な気持ちで受けてもらっちゃ困る」

 正論だ。そしてその理論で行けば僕は真っ先にその資格を失うことは間違いない。

「……はい」

「……まあ、なんだ。『ああいう事』があって気分が沈んでるってのは分かる。けれど、これはお前の人生だ、今度の三者面談までにしっかり考えとけよ?」

 それからいくつかの言葉を交わし、僕は教室を後にした。横開きの扉の外では椅子に座って順番待ちをしていたクラスメイトの歌川さんがいた。

「次どうぞ」

「う、うん。……ねえ、先生にどんな事聞かれた?」

 歌川さんは緊張した面持ちで僕にそう聞いた。これまで同じクラスであるという接点しかなく、話した事なんて殆どなかったから僕は少し面食らった。

「何って……」

「ほら、この成績だと難しいとか説教されたとか」

「いや、そういうのはあんまりなかったと思うけど」

 たった今行われていた二者面談は既に朧げなものになっている。集中していなかったために話の内容そのものは覚えているが、フィルター越しに聞くようにぼやけてしまっている。その中で何故か、ああいう事、という先生の言葉だけが明確に残っているだけだ。

渋い顔の僕にどんなものを感じ取ったのか、歌川さんは戦場に向かう兵士のようなどこか覚悟を決めた顔をしながら教室に入っていった。

彼女の事はあんまり知らないが、成績に不安でもあるのだろうか。

そんな思考に入ったのは一瞬で、用事を終えた僕は下駄箱に向かう事にした。

三年生の教室は三階にある。下駄箱に向かうには細長い廊下を抜け、階段で下に降りる必要がある。


廊下を横切っていると突如、開けっ放しの窓から突風が飛び込んできて僕を顔を撫でていった。窓の外を眺めると新緑生い茂った木が幾本も立っている。

卒業生の有志が寄付してくれたという、学校の敷地内に植林された桜の木だ。毎年、入学式や卒業式の時期に映える桃色の花弁はもうない。花見の時期は終わり花びらが散ってしまって久しい。

そういえば、と今日の日付を思い出す。

『彼』が交通事故でこの世を去ってから一カ月が経過していた。

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