僕達は何処にも行けない

@Mamama010101

第1話 序

 道路に面した歩道から幾分離れて設置された喫煙所で、私は煙草を咥えて火を点ける。いつ買ったかも覚えていない、おそらくコンビニで買っであろう百円ライターはオイルが切れかかっていて、何度かヤスリを回してようやく煙草に火が灯った。

深く、息を吸い込む。そして肺まで届いた煙を一気に吐き出す。

健康に悪いとは思いながらも、すっかり喫煙の習慣がついていた。

……こうやって煙草を嗜むようになってから大分経った。朝起きるとけたたましく鳴り響く携帯のアラーム機能を止める次に煙草を探すようになって、仕事中も時折口寂しくなるくらいには私も喫煙者になっていた。

再び煙を肺に入れ、それを呼吸と共に吐き出す。

白い吐息と煙が境界線も曖昧なまま放射状に延びていき、闇夜に消えていく。


 喫煙者の肩身が狭くなってもうしばらく経つ。

私は紙煙草の信奉者だが世間では電子煙草なるものが幅を利かせるようになり、煙草の値上げもあって愛煙者自体も少なくなった。そのあおりを受けたのかどうかわからないが、この喫煙所も撤去されるようだ。灰皿スタンドの側面には雨で滲んで読みづらくなった日付と撤去という文字が書かれている。近い将来、大よそ一月後の日付だ。一カ月、それがこの灰皿スタンドの余命らしい。

文句も言わずに灰やら煙草の吸殻やらを受け止めてきたのに酷い仕打ちだ、と私は一人笑った。

……一カ月後、この場所はどうなるのだろう。

小さな公園になるか、駐車場になるか、或いは何もない場所になるのか。

考えてもそんな事はどうしようもない。市議会議員でもなんでもない私一人で撤去を止められるほどの権力を有しているわけではないし、もっと言えばこの場所に特別な思い入れがあるわけでもない。就職して県外に行ってからは地元に帰る事も億劫になってきたし、多分この喫煙所に訪れる事も早々ないだろう。

だから、ここの喫煙所が無くなってしまっても別に構わないのだ。

片隅にひっそりと在った喫煙所が一つ消える。ただ、それだけの話だ。

 

 こんな無駄極まりない思索に耽る事が出来るのはこの喫煙所には私だけだからだろうか。

静かな空間に車の往来が遠くに聴こえる。月明りと置き去りにされたような古い街灯だけが光源で、時折葉が散った木々の擦れあう音が耳に残る。風がコートの隙間を縫って侵入し、身体を冷やしていく。


こんな場所だからこそ思考は内に内にと沈んでいく。何もないという場所は自己埋没にはうってつけだ。満員電車に乗って未だに陰鬱な気分になる軟弱者の私としては、ヒトの営みを感じさせる音や匂いが希薄なこの場所は中々居心地が良い。

ちょっと外を出歩けばどこにでもありそうな場所に安らぎを感じるあたり、私も大分疲れているな、と自虐の笑みが零れた。


学生時代に戻りたいな、なんて事を最近よく思うようになった。きっと会社で出くわす数々の理不尽が現実逃避させているのだろう。それにこれから高校時代の同窓会があるということも相まって途端に学生生活が恋しくなる。

どうでもいいことで笑いあって、日常でありながらも刺激に満ちた学生生活にはもう戻れない。幼い頃はあれだけ大人になりたいと思っていたのに、今では無性に昔が懐かしくなる。

あの頃は良かっただなんて、まるで老人の回顧のようだ。

―――ふと、コンクリートを叩く微かな音が耳朶を捉えた。

耳を澄ますとそれは足音のようで、規則正しく刻む音は次第に此方に向かってくる。

音の方向に目を向けると、黒い影が見えた。

恐らく長身の男性。顔は薄暗いせいでまだ判別できないが、おそらく待ち人が来たのだろう。シルエットに何処か見覚えがあった。


私の予想は正しかったようだ。互いに目視できるようになると相手は顔を綻ばせて足早に近づいてきた。

「よう、久しぶり」

「うん、電話は良くするけど会うのは久しぶりだね、達哉」

「本当に何年ぶりだよ」

「別にウン十年、ってわけじゃないんだけどね。確かに、なんだか懐かしい気分になる」

 藤沢達哉。私が小学生低学年の頃から交流のある、幼馴染にして親友だ。

親友とはいうが、こうやって会うのは、大学卒業の時以来だったりする。私は県外の企業に就職したが、達哉は県内の高校で教師をやっている。今は実家近くにアパートを借りて、そこで自活しているらしい。

今でも頻繁に電話の遣り取りをしているから決して疎遠になったわけではないが、住んでいる場所も離れ互いに社会人となった今では顔を突き合わせて会うことはそう簡単ではない。

物理的にも精神的にも、距離はきっと遠くなった。

達哉は髪を整髪料で整え、シングルブレストのジャケットの上から無地のロングコートを羽織っていた。シンプルな服装だが、それを見事に着こなしているのは達哉の素材が良いからだろう。

しばらく見ないうちに達哉は青年から男性になっていた。

成長期を終えた大学時代から背が急激に伸びたわけではないだろうが、思い出に残る姿よりもいくらか長身に見えた。姿勢の良さだろうか、或いは社会人として自信がついてきたのだろうか―――どちらにせよ羨ましい限りだ。

「喫煙所で待ち合わせっていうから来たけど、お前煙草吸うんだな」

 意外そうに、達哉は私の右手に握られた煙草に目をやった。

そういえば達哉の前で煙草を吸うのは初めてかもしれない。それなりの喫煙者だが、喫煙所でもない場所で、非禁煙者の目の前で態々煙草を吸わないといけないほどニコチンに依存しているわけでもない。これでもマナーや分別はつけているつもりだから、達哉の前では吸ったことがなかったのだろう。

「言ったことなかったっけ?」

「初耳。吸ってるの初めて見たぞ。吸うイメージもなかったし」

「煙草吸う人のイメージってどんな感じなのさ」

「あー、なんつーか言葉で言うのは難しいんだけどな。こう、いかにも『私は煙草を吸います』って奴じゃねーだろ、お前は。見た目は真面目そうだし。中身は結構腹黒いけどな」

 確かに、と私は笑った。

入社当初、ビル一階の喫煙室で煙草を吸っていると、先輩社員が驚いた顔で達哉と同じような事を言っていたものだった。決まって彼等は意外だ、そんなタイプには見えなかったと口々に言うのだが、意外もなにもあったものじゃないと思う。

「まあ、達哉煙草吸わないでしょ。それぐらいは気利かすさ。マナーだよ、マナー」

 短くなった煙草を再び口に咥えると、達哉が無言でジャケットのポケットから四角い箱を取り出した。それを私に差し出すようにして見せた。

「実は俺も吸うようになったんだわ、煙草」

 その箱には圧迫されていたせいか少し凹んでいた。そのパッケージには私も知っている有名な煙草の銘柄が刻まれていた。中身が入った煙草のソフトボックスだ。

「俺もさあ、学生時代には全然吸ってなかったけど」

 煙草を取り出し、口に咥えた達哉は愚痴るようにそう溢した。私も達哉の隣に立ち、二本目を吸い始める。そして示し合わせたように二人同時に、煙を吐き出した。

「大学時代、先輩に吸わされて思いっきり咽てさ。それから煙草なんて絶対吸わないって思ってたんだよ。職場の先輩とか喫煙者が多くて。付き合いとかで吸って、気づけば今じゃ立派なニコチン中毒者だよ。……体に良くないって分かってんだけどな」

 教師っていうのはストレスが溜まるんだ、とボヤく。つん、と風で流れてきた煙が私の鼻腔を刺激した。私が吸ったことがない銘柄のようだ。それに恐らくタールの量も多い。

「そういやお前、大学から吸い出したのか?それとも社会人?」

「大学。高校の時に一回吸ったこともあったけど」

「……え?マジで?」

 心底驚いたようにまじまじと達哉は私の顔を覗き込む。

高校時代、県下ではそこそこ名の知れた進学校に通っていた私の生活態度は傍目から見れば真面目なものだったから、当時の私が煙草を吸う絵を想像するのは難しいのだろう。

「いや、お前は真面目そうに見えてそうでもないし。でもヤンキーってわけでもなかったろ。少なくとも校則とか法律を積極的に破るタイプじゃなかった」

「吸ったのは一本だけだったけどね。それも結構衝動的だったし。ほら、宇津木君って覚えてる?」

 宇津木大輔。彼は中堅公立高校にはあまりいないタイプの人間だった。

今では連絡することもないし、話すようになったのは高校三年生の夏以降だったからそこまで親しい関係だったわけではない。だから知ったように彼の事を語るのは憚れるが、今思えば彼は不良になり切れていない不真面目な学生だったと思う。

たまに授業をサボって、退学にならない程度に校則に違反するような事をして。

私達が通っていた高校はそれなりレベルの学力はあったから、髪を金髪に染めたりピアスをしたり、そういったあからさまな不良はいなかった覚えがある。

宇津木もおそらく、上手く校風に馴染めなかった中途半端な学生だったのだろう。

「あーいたな。俺はあんまり喋ってなかったけど、お前とは突然話すようになったよな」

 印象的なエピソードがあった僕と違い、達哉と宇津木の関わり合いは僕よりももっと薄い。眉間に皺を寄せて、思い出すように達哉は言った。

「そういや幹事の委員長から聞いたけど宇津木は来ないらしいぞ。仕事が忙しいらしくてな」

「社会人だからね。予定が合わないっていうのはしょうがない。……そういえば宇津木ってなんの仕事をしてるのかな」

 それなりに話す仲にはなったのだが、それは高校三年生の時に限られる。浪人した事は知っているが、その後の足取りはさっぱりだ。

「アイツ国土交通省にいるらしいぞ」

 達哉の言葉に一瞬固まる。国家公務員。僕のような一山いくらの中小企業勤めとはワケが違う存在だ。

「そりゃあまた。人って変わるもんだね、高校時代の宇津木からはまったく想像できない。で、話戻るけど三年生の時、宇津木が学校で吸ってるの偶然見ちゃったんだよ、その時に一本だけ貰って。後はちゃんと二十歳から吸ってたよ」

「学校で吸ったのかよ……。まあもう時効か。っていうか二十歳ね、……ああ、そういえば俺達もう二十代なんだよなあ。大学も卒業して、社会人もして」

 そんな当然の事を、どこか達哉はしみじみとした様子で。フィルターに近づいた煙草を灰皿でもみ消していたから、私からは達哉の表情は窺えなかった。ただ、声色は草臥れているようにも聞こえた。

「何か職場で嫌なことでもあった?」

 僕の言葉に達哉は大仰に肩を竦めた。

「そりゃあるさ、年がら年中な。糞餓鬼共は生意気だしモンスターペアレントはいるし。本当今更ながら、五十嵐先生は偉大だったって今になって思うな。……まあ、それもあるけどそうじゃなくて、もう俺達大人なんだよなぁって思ってさ」

 ごく当然の事を達哉はしみじみと感慨深く言った。

「世間一般から見れば、私達も大人なんだろうね」

「全ー然大人になった気がしねえや。俺の頭ん中は中学高校で止まってて、もう成長しそうにない。もう十年もすれば無駄に歳だけ食ったみっともないオッサンが出来上がるだろうよ」

 自虐するように言った達哉は二本目の煙草に手を付けた。大分疲れが溜まっているようだ。思春期の生徒の相手をする、というのは私が想像するだけでいかにもストレスが溜まりそうだ。

「まあ、言いたいことは分かるよ。私もあんまりそういう実感はないから」

「なんつーかまだ学生気分なんだよ。社会人経験はまだ短いからって言えばそれまでだけど、まだ俺達は大人になり切れてない。昔は、煙草吸ったり酒飲めるようになったら大人になれるって思ってたけどな」

「……そうだね、私もそんな事思ってた時期があったけどそうじゃないね」

 私が中学に進学する頃には禁煙していたが、今は亡き祖父は重度のヘビースモーカーで、幼い頃の私には縁側でぷかぷか揺れる紫煙が大人の証のように見えていた。

実際に拓馬―――歳が離れた私の兄―――は祖父に憧れて煙草を吸い始めた気がある。

一方の私は、本当になんとなく吸い始めた。高校時代の一本は気の迷いというか、試しに吸ってみてものの見事に咽た覚えがあるから、それが直接的な原因ではないはずだ。

切っ掛けはもしかしたらあったかもしれないが、少なくとも記憶に残らない程度の些細な事だ。

……それにしても、実際どうなのだろう。

右手の、すっかり短くなった煙草をじっと見つめる。こうやって堂々と煙草を吸える年齢になっても、就職して自分の食い扶持を稼いでいても、果たして大人とやらになれたのか私には分からない。

少なくとも、私は自分が大人になったという自覚がいまいち持てないでいた。

「宇津木で思い出したんだけど、アイツは今、どうしてんのかな」

 アイツという抽象的な言葉は一体誰を指すのか、理解するのに一時が必要だった。

「俺達は、まあ社会人にはなった。五十嵐先生はもうすぐ定年らしいし、歌川なんかもう結婚するらしいぜ。委員長はきっちり神主やってるって聞くし」

「……ああ、『彼』ね。さあ、どうだろう。でもまあ、向こうの世界でよろしくやってるんじゃないかな。確かめようがないし、今更あんまり興味も沸かないけど」

「おいおい薄情だな、一応は十年ぐらいの仲だっただろうが」

「確かにね。でもそれも過去の事だ。割り切ったよ、流石に」

 だって、もう終わってしまったことだ。これだけ時間が過ぎれば折り合いだってつく。

とっくの昔にケジメはつけた。あの不思議な出来事をなかった事のように扱う気はないけれど、高校時代の一つの思い出として数える程度には過去の事になった。

昨日高校時代のアルバムを見たから顔の造形が脳裏に浮かび上がるが、それがなければきっと無理だった。

達哉も大した関心があったように見えない。話の流れで言ってみた、その程度のものだろう。

……時の流れは過去を洗い流していく。いい思い出も、悪い思い出も。

気が利かない事に、悩んだ処で時間は都合良く止まってくれないから押し寄せる新しい厄介事に過去は追いやられてしまうのだ。

砂浜をさらう、さざ波のように。

どんな出来事も、いつかは過去になる。

「今更だが思うよ。果たしてあれは本当に存在した出来事なのか。もしかすると俺達の妄想じゃないかって」

「否定したい気持ちは理解できるけど、あれは間違いなく現実にあったことだよ。……本当に残念な事にね」

「マジであれってなんだったんだろうな。『悪戯だ―』って当時はムキになってたけどあれは本物っぽかったよな。……確かに、今となっちゃあ確認のしようなんてないんだけどさ。つーかお前はまだあれ持ってんの?」

「多分どこかのタイミングで捨てたと思うよ。あんまり覚えてないけど」 

高校三年生の春に起きた出来事。

時間が経過した今となれば悪い夢だったかのように思っても仕方ない。

出来の悪い冗談にしても随分と悪辣で、一時期達哉は犯人探しに躍起になっていた。

でも僕は―――いや、達哉もあれが『彼』の仕業であると感づいていた。

誰かの悪戯に違いない、と疑う気持ちもあったが―――。

……いや、それは少し違うか。

かつての私はあれを、『彼』の仕業だと信じたくなかったのだろう。


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