4 The phantom is your mind.











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『今すぐこの本を閉じて、平穏な日々に戻ることを強く勧めるる。』

そんな書き出しで始まった小説、続きが気にならない訳もない。寄り道したカフェでお気に入りのパンとコーヒーをお供にページをめくった。







──ここに来てからどれくらいの時間が経ったかなんてとうの昔に忘れた。


今がいつ何時なのか、朝か昼か、ここは何処か。


本当の名前すらも忘れた。


冷たく固い床に寝ていた為、全身がバッキバキだ。


…いつものことか。


見回りの看守が来る前に起きられて良かった。


いや、そもそも今日も目覚めることができて良かった。


ここは戦場、明日生きられる保証はない。


そして、今日生き残れる保証も。



「…ってぇ」



昨日、腕に付けられた傷に目を向ける。


ろくな手当もされていない生傷と変色した痣と、きっと折れていたりするであろう骨。


痛い、なんて感覚は無くなってきた。


なんでこうまでして生きていたいんだっけ。


壁に寄りかかって息を吐く。



「…あー、」



ずるずるとそのまま座り込む。


考えることを放棄して、体力の温存に勤しむ。


すると廊下を歩く靴音が響いてきた。



「…!?」



見回りか……まだ寝てる隣の……なんだっけ、あぁ、208番。起こしてやるか…。



「…おい、そろそろ起きた方が……?」



触れてみると自分の冷たい手先より冷たかった。



「……」



どうしようかと呆然としていたら、足音が止まった。


振り返って柵越しを除くと、そこに居たのはいつもの看守ではなかった。


普段の、黒い制服に帽子を目深に被った長身な…きっと男であろう人ではなく、白いジャケットに黒いシャツ、真っ直ぐな前髪で長い黒髪をひとつに縛っていて…


何より印象的だったのは右耳の上にバッテン付いていた赤いアメピン。


あぁ、上官なんだろうなぁと、すぐに察した。



「156番、ですね。」



「…はい…。」



「208番は?」



「あ、それが、いや…」



「そうですか。」



「…。」



あっさりと切り捨てた彼女の目的はなんなのか。


僕は頭を巡らせる。


思考の回路を無理矢理働かせて、繋ぐ。


今まで使われなかった部分まで、フルに起動させて。



「156番。君に渡したい物があります。」



「…なんでしょう。」



「これを。」



「…」



鉄格子の隙間から細い手を伸ばし差し出されたものはラミネート加工されたもの。



花びら型の用紙の所々に赤いシミが出来ている。


まるで、返り血を浴びたような。



「それは、とある一族の血です。身に覚えは…ありませんか?」



「…。」



「信じるか信じないかはあなた次第です、とでも言っておきますか。」



「は、はぁ。」



208番の回収は行っておきます、と言い、少しだけ顔を伏せた。



「…持っておくと…なにかいいことがあるかも、しれませんよ。」



そう言って改めて手を伸ばす。



「…あ、ありがとうございます。」



僕も手を伸ばす。


少しだけ、彼女の手に触れた。


彼女の手もまた、冷たく感じた。



「…あなたはまだ暖かい。」



「…え?」



「暖かいままで、いられるといいわね。」



整った唇の端を持ち上げて、妖艶な笑みを浮かべた。


その仕草に僕の背筋は凍りついた。



思い出してしまった。



長い黒髪と赤いアメピン。


ある貴族の血痕。


花びら。


冷たい手先。


妖しい笑み。



彼女は僕の心を見抜いたように言った。



「私はなにも”貴族の”なんて言ってませんよ。」



思い出してしまったのなら何より。



これからが楽しみですね。



僕の近くでそう囁いて、離れた。


僕は相変わらず動けなかった。



押し込めていた記憶の蓋、


忘れていたあの出来事、


僕がここにいる原因、


あの人は───










「なーに読んでるんですか?」



「うわっ!?」



いかん、つい本に集中してしまっていた。


大声を出したため、周りの人の視線が一瞬集まる。



「あ…あぁ、ええっと…」



苦笑いを浮かべながら頭をかく。


いい所だったのに、という思いが湧いてくる。


冷めてしまったコーヒーに口を付ける。


声をかけてきた人はカウンター席の僕の隣に座る。



「時間、少し遅れてしまってすみません。」



「あー、いえ、大丈夫ですよ。」



それで…僕は言葉に詰まる。



「失礼ながら…どちら様…でしょうか…。」



「ん?あっ、…これは失礼しました!人違いでした…。あっちゃぁ…またやってしまった…いや、本当にすみません。」



このカフェで待ち合わせをしていまして…相手が本を読んで待っている、と言っていたものでつい…と、説明される。



「あー、そういうことですか…あはは…」



渇いた笑いが出てきた。


まぁ、彼女に悪気があった訳では無さそうだし、人違いなんてものはよくある事だ。



「まぁ…でも、せっかく、と言うのはなんですが、何かのご縁ということで、これ、差し上げます。」



そう言って彼女はバッグからラミネートを取り出した。



「…!」



「うーん、ご存知かもしれませんが、これはとある一族の血痕です。」



はい、とこちらに向けてきたので思わず受け取る。


見れば見るほど、さっき読んだ本に出てきたもので、想像していたものに似ている気がする。



「そうですね…まぁ、信じるか信じないかはあなた次第、とか言っておきます。」



どこかで聞いたことあるようなセリフを残し、立ち上がる。



「この度はほんとうにすみませんでした。」



そう言ってぺこりとお辞儀をしてからパタパタと駆けていく。


驚きのあまり、



「いえ、大丈夫ですよ、それでは、」



なんて片言しか出てこなかった。



でも去り際に見てしまった。


彼女の右耳の上には赤いアメピンがバッテンに付いていた。



そして、



端正な唇の端を僅かに持ち上げた仕草を。







物語と現実が交わる何時かの出来事。


信じるも見ないふりも貴方次第。


一瞬の偶然に惑わされるも然り。


自分が信じられるものは…何?






NEXT➣




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