2 箱ティッシュとあの子の臓機
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無機質に規則正しく響く電子音。
忙しそうに廊下を走る靴音と喋り声。
私の手をそっと握るあの人の感覚と、鼻炎で鼻をかむ音。
何気なく聞いていた音たちが本当にあったかどうかは、もう確かめる術もない。
あの日を境にぱたりと聞こえなくなってしまった音。
あの日を境になくなってしまったあの人の手の感覚。
最後に覚えているのは愛しい人の「ありがとう」とすすり泣く声、それからスニーカーを引き摺る音。
あれからどれくらい経ったのだろうか。
今もこうして、昔を思い出せるという事は、誰かの一部に成ったのだろうか。
愛しいあの人に、もう会うことは出来ないのかな…。
それはちょっと淋しいな。
せめて、私が生きている間に、もう1回くらい顔みて、お話したかった。
前にドナー登録した時、あの人は反対した。
でも私は後悔してないよ。
どうせ灰になるんなら、必要な人がいるんだから、その人に渡してあげたい。
”私の代わりに生きて”と。
自分の事だから、よく分かってる。
”私の心はとうの昔に亡くなってしまいました
私の脳も動きません
私に残っているのは臓機だけです
────「どうか、まだ未来のある人の為に使ってください”」…か。
遺品の整理をしていたら、机の引き出しからメモ書きが出てきた。
これが書ける、ということはまだ元気だったんだ頃なのだろう。
「そんな頃から自分の行く末を考えるなんて、悲しすぎるだろ…。」
あぁ、泣いたら鼻水出てきそう。
きっと、病院のベッドで眠る彼女にも聞こえていたであろう鼻水をかむ音。
…というか、ぞうき、の漢字、違くない?
臓器、だよね。まったく…。
ティッシュを取りに立ち上がろうとすると、奥の方に箱が見えた。
手に取ってみると、だいぶホコリを被っている。
フタを開けると、中にはさっきと同じようなメモがたくさん入っていた。
一番上にあった紙を1枚取り出し、読んでみる。
「…なんだよ」
本当は、生きたかったんじゃん。
やっぱティッシュ必要だわ。
箱を一旦床に置き、立ち上がった。
*
彼女の部屋を出てリビングに向かう。
その時、インターホンが鳴った。
「はい、どちら様?」
「あ、私、通りすがりの者なのですが、」
よく分からないがとりあえず玄関を開けた。
「あ、ありがとうございます。少し、お話させていただけませんか?」
「何かの勧誘だったらお断りですけど…。」
「いえ、決してそんなものではなく、」
これ、落としてませんか?と、長い黒髪の女性は黒ボールペンを差し出す。
「あっ…」
そうです、確かに落としました、ありがとうございます。と、受け取る。
「でも、どうして…?」
「玄関の前の廊下に落ちていて、違うかなーと思ったんです。」
知り合いがここのマンションに住んでいて、と続ける。
「はぁ…いや、ほんとうにありがとうございました。」
僕としてはとりあえず鼻かみたいなぁ…と思っているんだが。
「あぁ、それともうひとつ。これ、差し上げます。」
と、カバンから取り出したのは、花びら型に切り取られたフラワーペーパー。赤からだんだん白にグラデーションされていて、ラミネートされている、栞のようなものだった。
「それ、とある臓器のホルマリン漬けの欠片です。」
「…は?」
はい、と手の上に置かれて受け取らざるを得なかった。
「信じるか信じないかはあなた次第です、とかって言っておきます。」
あっ、時間!と、思い出したように慌てる彼女。
「すみません、失礼します、お騒がせしました!」
ぺこりとお辞儀をしたて、小走りに去っていくのを見送った。
手に残るラミネート加工を見て、ふと気づく。
「…ほんとだ、消毒液の匂い。」
これが本当に臓器かどうかは知りえないことだが、思い出すことはあった。
それと同時に鼻の奥がツン、としてきた。
「…ティッシュ。」
あぁ、こんなすぐ泣いてたらさ、いい加減彼女に怒られちゃよ。
どこかで誰かの役に立っているといいなぁ。
そんなことを思いながら、玄関を閉めた。
彼女が愛用していた、レモングラスの匂いがした気がした。
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病死した彼女と取り残された俺。
彼女は知っていた。
未来、音、思い。
その全てを愛していました。
NEXT➣
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