第2話 夕暮
小さく、水の音が聞こえる。
岩や苔の合間をさらさらと流れる川音や、砂地を撫でて引き返す波の音ではない。配水管を通って落ちていき、金属を叩く音。自然物が人工物に反抗している。私は真っ暗な空間の中で、息を潜めて聞いている。たゆたって仰向けに、脱力した様子でそこにいる。やがて頭上の黒色が赤みを帯び、薄明るくなっていく。水音は次第に遠ざかる。空間は揺らめいて、白く眩しい光が増す。
水面へと向かい浮上する感覚によく似ていると、ぼんやりとした思考の中でそう思った。
まぶたを開け、程なくして目が覚める。窓の外から、微かに雨の降る音が聞こえ、窓を時折叩いている。部屋は静かな気配を漂わせていた。弱々しい光が、室内の青みがかった影色を、仄かに明るくする。
いつもより早い時間に起きてしまった。携帯のボタンを押して時刻を見ると、まだ5時ぐらいだった。寝返りをうち寝ようと試みるも、何故だか頭が冴えてしまっていて、上手く寝付けない。仕方なく布団から抜け出し、部屋のドアを開ける。薄茶色の単調な木目に足を1歩踏み出すと、廊下の床が軋んだ。
翔太が事故に巻き込まれかけてから、1週間が経っていた。あの後、警察に話をし、店長やお母さんにとても心配された。そして翔太は事情を聞いたお母さんに怒られていた。無事で良かったと、泣きながら言っていた。事故の翌日は休んだが、本人は何でもないような素振りで、普段と同じように学校に通っている。私もバイトへと向かい、普段通りの日常へと戻っていった。けれど、私はまだ、あの日の出来事が忘れられないでいた。
お母さんも翔太も寝ている時間、ひっそりとしている台所に向かう。インスタントコーヒーの粉をマグカップに入れ、やかんに水を入れる。コンロのスイッチを回すと、切れ切れの音を出した後、勢い良く炎を上げる。
店で出会い、忽然と消えた*という人物が、何者だったのかは分からないままだった。あれ以来、会えてはいない。長い睫毛に墨色の瞳、穏やかな眼差しが思い出される。あの日初めて会ったはずなのに、以前何処かで知り合った気がしていた。辿ろうとしても、道筋は途絶えてしまい、手がかりは見つからない。
記憶の片隅にあるのに、どこからやって来たものかが分からず、持て余してしまっていた。気付いたら、知らず知らずのうちにそこにいた。いくら自分自身に問いかけても、答えは出ないままだ。ずっと頭の中で引っかかっていて、忘れられないでいた。
やがて、銀色のやかんが甲高い音で鳴く。私はあわてて火を止めた。
***
暖かく、柔らかい風が髪を揺らした。すこし擦れた、ローファーのかかとを鳴らして歩く。朝方の雨は上がって、雲ひとつないパステルカラーの青空が広がっている。足取りは軽い。黄緑色の葉っぱが空を撫でて、きらきらと光を振りまいている。ちいさな横断歩道で信号待ちをしていると、とんとん、と肩を叩かれた。振り向くと、突き出された華奢な指が頰に当たる。わ、と思わず声が出てしまった。
「おはよう、彩音!」
「もう、光里ったら!」
わたしは頬を膨らませて答える。光里は白い歯を見せて、いたずらっぽい笑みを浮かべる。ふわふわとした髪を揺らして、隣に走り寄ってきた。一緒に並んで歩き始める。
「彩音、いっつもひっかかるんだもん。気を付けないとダメだよ〜」
「もー、次会った時は、彩音からもお返しするからね?」
「りょーかい、受けて立ちます」
真面目な顔をして返されてしまった。しかも敬礼といっしょに。思わずわたしは吹き出してしまう。
光里は、わたしの親友だ。
教室の窓側、前から3番目の席。
明るい日が射すその場所が、わたしの席だ。
日に焼けて古くなった机には、鉛筆で描かれた誰かの落書きの跡がついている。椅子を引き出すたびに、大きな音がするのがちょっと嫌だな、と思ってる。お気に入りのストラップをたくさんつけた、スクールバッグをその上に置く。ななめ前の席、自分の席に光里はバッグを置くと、その前に座っている清水くんに声をかけた。彼は数学の教科書とノートを開いて、何やら勉強していたようだった。手を止めて振り返り、おはよう、と返した。
清水くんは学年内で上から数えた方が早いくらいに、頭が良い人だ。だからと言ってつんけんとした性格のひとではなくて、誠実で話しやすかった。わたしも何回か話した事はあったけど、光里から声をかけることもよくあって、最近は一緒にいる事が多くなった。清水くんと話す光里は、なんだか生き生きとしてみえた。なんとなく、わたしたちは一緒にいることが多くなった。
チャイムが鳴って、お昼休み。皆それぞれに机を寄せ合ったり、売店に向かう。中庭のベンチでお昼を食べる人もいて、皆のびのび自由に過ごす。カバンからお弁当の手提げと水筒を出して用意していると、光里が話しかけてきた。
「彩音、お昼どこで食べる?」
「どうしよっかな。今日はお母さんに作ってもらったお弁当があるから、外で食べたいかなぁ」
「確かに、天気良いもんねぇ。あ、そうだ! 屋上で食べない?」
「え、屋上って、入れるんだっけぇ」
光里は少しだけ悪そうな顔をして、
「実は、この間行ってみたらドアの鍵が開いててね。何日か様子を見に行ってみたんだけど、大丈夫そうだったから行ってみない?」
と、大胆な提案をしてきた。
「んーー……。先生に見つからないかな? ちょっと心配だなぁ」
「そん時はそん時で、どうにかなるでしょ!」
ふん、と胸をはって得意げな顔をして言う。
「ええー、光里、勇気あるなぁ」
「まーまー、今まで何度も行ってるけど全然見つかってないし、大丈夫だよ! 今回は協力者もいるし」
「協力者?」
私は首を傾げる。すると、教室の後ろのドアが勢い良く開けられた。何事かと、教室中の人たちの視線がそちらに向かう。そして、そこにいたのはーー亮介だった。
「あ、わりぃ。うるさくしちまった」
彼は茶色がかった頭をがしがしとかきながら、ひょこっと首だけでお辞儀をした。そしてまっすぐわたしの所に歩いてきて、嬉しそうに言った。
「彩音も屋上で食うか?」
「え、もしかしてぇ、亮介が共犯ってこと?」
目をぱちぱちさせながらわたしが言うと、光里は微笑みながら首を縦に動かした。なんだか、逃げる隙がない。というか、選択肢がもうすでに一つしかない気がする。
そうだ、清水くんは、と助けを求めて席を見てみると、姿はなかった。教室を見回してもいない。これは観念するべきか…と視線を戻すと、2人が揃ってにーっと歯を見せて笑った。
錆び付いたドアを開けると、叫ぶように軋む音が鳴る。途端、風が吹き込んできて、思わずわたしは目をつぶる。
「わ、いい天気ー!」
光里の無邪気な声が聞こえる。目を開けると、広がる住宅街と、大きな青い空が待っていた。雲はほとんど無くて、太陽の光がまぶしかった。
初めて見る景色に見とれていると、「彩音、こっちこっち!」と呼ばれる。呼ぶ声のする方を見ると、ひらひら手のひらを振る光里と、亮介とーーなんと、清水くんがいた。
「え、清水くん⁉︎」
何やら本を読んでいた彼は、こちらを振り向く。なんでもないかのように、やあ、と言って片手を上げた。大きな手が光を受けて白くみえる。
所々雑草やら苔やらが生えた屋上のコンクリートに皆は座っていて、私もその場所に駆け寄る。光里は「スカートが汚れるといけないから」とわたしにタオルを差し出した。準備がいい。もしかして前々から計画してたのかも。借りたタオルを丁寧にたたんで置き、その上にお姉さん座りで座る。
「実は前から憧れてたんだー、屋上で食べるの」
光里はわくわくした様子で言いながら、側に置いてあったカラフルなお弁当包みから、小さめのお弁当箱を取り出す。
「漫画とかの読み過ぎじゃないかなぁ」
「でも、いつもとちょっと違う感じで良いよな」
まあそうだね、と清水くんが亮介の話に相づちをうつ。なんだか見た目が正反対な2人が一緒にいるのは、不思議な感じだ。
「さてさて、ではみなさんっ」
光里のかけ声を合図に、
ぱん、と手を合わせる音が鳴る。
「いただきまーす」
それぞれのお弁当のふたが開けられた。
お喋りしながらお昼休みは過ぎて、そろそろ戻ろうか、となった時のことだった。わたしは皆よりちょっと早く支度が終わり、携帯のメルマガをチェックしていた。そろそろ終わったかな、と思い顔を上げると、3人が何かひそひそ話をしていた。
「どうしたのぉ?」
と声をかけると、亮介がばっと勢いよく振り向いて、続いて光里と清水くんがこっちを見た。
なんでもねえよ、と亮介から答えが返ってきた。今、なにか手元に隠したような気がするけどな。見間違い?
「さ、戻らないと!」
と、光里がさっと立ち上がって言った。見ると、時刻は12時55分。
あれ、結構危ない時間では?
「やべえ、次音楽室に移動だった!」
と亮介が慌てて、飛び出していった。僕たちも急ごう、と清水くんに促されて、わたしたちも後を追う。
何を話していたのかはうやむやのまま、お昼休み終了のチャイムが鳴る。
その日の後、何度か3人がひそひそと何かを話している場面に出くわした。頻繁ではなくて、たまに。朝早くとか、放課後とか。私が話に入ろうとすると、決まってみんなは驚いた顔をして、なんでもないよ、と言うのだ。その度にわたしは首を傾げる。
だってこんな事は4人で行動するようになってから、初めての事だった。登校するときも、光里に会わないこともぽつぽつとあった。亮介に会った時に、何回か聞いてみたけど、はぐらかされて、曖昧なままになってしまった。清水くんに聞いてみても同じだった。
夕方。つまらない数学の授業が終わり、プリント類をバッグに入れ終わった後に顔を上げると、既に光里も清水くんもいなかった。隣のクラスの教室に見に行ってみたが、亮介の姿も見当たらない。いつもは一緒に帰っているのだけれど。部活か、日直か、それとも委員会の集まり? そんな考えを巡らせながら帰ろうとしたところで、忘れ物に気づいた。筆箱、ないと宿題が出来ない。急いで自分の教室に戻ると、同じく帰ろうとしていたクラスメイトと鉢合わせた。
「あれ、今日は1人?」
「うん、まあね」
相づちを打ちながらも、わたしは早足で自分の席に向かう。わたしの様子をじっと目で追われているのが、見なくてもなんとなく分かった。まとわりつくような視線を感じる。そういえばさあ、と話しかけられる。やけに大きな声で、ねっとりとまとわりつくような雰囲気を漂わせながら。
「最近、4人とも仲いいよねえ」
ぴた、とわたしは動きを止める。どこか棘のある言い方だったからだ。
振り向くと、じっとりとした視線が真正面から刺さった。
「この間、屋上にも行ってたでしょ。良いのかなあ、確か立ち入り禁止にされてたよねえ」
言葉の端々が私を刺す。耳がひりひりと痛い。
早々に立ち去りたいと思った。この子といくつか目が合った場面を思い返すと、どれも明るい表情は見当たらなかった。光里と話しているときもそれは変わらなかったし、光里からも何度か嫌みを言われた事があると聞いていた。わたしたちの事が嫌いなようだった。いつからだったかは、はっきりとはわからない。
「じゃあ、また明日」
わたしは逃げるように教室を後にしようとする。その様子を視線が追いかける。わたしが教室を出るときを見計らうように、話しかける。
「佐藤さんがトイレに行ってる間にね」
構わず、わたしは廊下へと飛び出す。
「3人で楽しそうに帰るの、見たんだから」
走り出したわたしに向かって、大声で言われた。
学校を出るまで、耳鳴りは止まなかった。
***
いつも通る住宅街の道、何故か私は電柱の陰に身を潜めている。
視線の先にはバイト先の佐藤さんの背中。なんとなく、足取りが重く見える気がする。それを追いかけては隠れ、様子を窺う。我ながらとても怪しい。ストーカーにしか見えないし、こんなこと柄に合わない。向こうに感づかれはしないかと思い、こそこそと様子を見ていると、
「なにしてんの?」
いきなり背後から声を掛けられ、驚いて変な声が出る。慌てて口を手で塞ぐ。
「ねえちゃん、怪しすぎ」
振り向くと、呆れた顔の翔太がいた。手にはネットに入ったサッカーボール。友達と遊んできた帰りらしい……が、やけに泥んこだ。夢中になってやっていた様子がよくわかる。
「な、なんでもない」
「なんでもなくないでしょ」
明らかに挙動不審な様子だったようだ。目が泳いでいるのが自分でも分かる。
「ねえちゃん、すぐ顔に出るから」
翔太はいたずらっぽい笑顔をして言う。取り繕うことが苦手すぎて自分でもちょっと呆れてしまう。
「で、何してたの」
そう聞かれて、私は言い淀む。率直に言うのは憚られる。それは、と言いかけて、やめてそっぽを向く。
「翔太には関係ないでしょ、ほら、早く帰りなよ」
手をぴらぴらと振りながら帰りを促すと、翔太はむっとした顔で言い返してきた。
「なんでだよー、気になるだろ」
「それよりも、その泥んこの状態のままでいたら、お母さんにバレてまずいと思うけど?」
にやりと笑って言うと、え、と翔太はにわかに焦りだした。
「今日はお母さんの帰りが遅いから、今から早く帰って洗えばバレないと思うけどなあ、良いのかなあ」
わざと意地悪く言ってみる。どうしよ、と翔太は迷っているようだった。
洗面所にある石鹸でしっかり洗えば落ちるよ、と言い残して、私は佐藤さんを追う。翔太が呼び止めた気がするが、今は構ってられなかった。
***
気がかりな夢を見た。
広い河川敷の原っぱ。周りには誰もいない。夕ご飯の匂いはあちらこちらから漂っていて、家の灯りも点いているのに、道には車も人もいない。鳥も飛んでいない。生き物のいる気配が希薄だった。
私は白いワンピースに身を包んで立っていて、水が地面を洪水のように流れていた。水はさらさらと何処からか流れ込んでくる。川に架かる橋からも滝のように水が流れ落ちていた。けれど音は聞こえない。何故か水自体は澄んでいて、足元の土や草のそよぐ様子がわかる。清流のような水の透明度の高さを異様に感じた。
ふと原っぱを見渡すと、見覚えのある姿が目に入った。黄色みがかった明るい色の茶髪に、短めの丈に折られた制服のスカート、磨かれた焦げ茶色のローファー。傍らのスクールバッグにはヘンテコなうさぎや犬のストラップがたくさん付いている。たぶん、佐藤さんだ。体育座りをして、前に出した両膝に顔を伏せているので表情は見えない。
近づいて、ねえ、と声を掛けたその途端ーーすう、と体全体が透け始めた。身体の全体の色が薄まって、だんだんと無色になっていく。予想外の事に焦り、近寄って肩に手を置くと、ぼろり、と身体の一部が砕けた。落ちた欠片は柔らかくて、ゼリーのようにぷるりと震えた。
思わず私は後ずさってしまう。手を置いた所を起点に、どんどんと崩れていく。欠片は足元の水面に音を立てて沈み、溶けて消えていく。やめて、と意識しないうちに叫んでしまっていた。翔太の時のように、目の前で大切な人や見知っている人を失う瞬間を見るのが怖かった。突然の出来事に驚き、どうすることもできずにただただ翻弄されている自分がもどかしかった。その状況をなんとか変えたくて、すがるような思いで声を荒げた。
すると、ぴた、と崩壊は止まった。はっと目を見張る。しかし身体の半身は無くなっていて、元に戻ることはない。身体も透けたままだ。佐藤さんはじっと動かない。恐る恐る私は手を伸ばす。私の影は長く伸びているのに、佐藤さんの影は光を含んで淡く、今にも消えてしまいそうだった。先程より夕陽の橙色が弱くなっている。藍色が空の向こうからじわじわと迫っていて、もうすぐ夜がやってくる。指先が触れるまで、あと数センチ。
と、その時。透明になった佐藤さんが徐に身を起こし、大きな瞳でこちらを見た。私は動きを止めて、息を呑む。
涙を溜めた目を細めてーー何か一言、呟いた。
そうして、ふ、と笑った。
そこで意識は途切れた。
***
オレンジ色に染まった河川敷を歩く。買い物帰りのおばさんや、散歩をしているおじいさんとすれ違う。連れられて歩く犬の、黒豆みたいなまん丸な目がこちらを見て、すぐさま目を逸らした。
家まではあと数分。
光里、亮介、清水くん、次々思い浮かべて、ぐるぐると気持ちが渦を巻く。なんだか耐えられなくなって、道端の芝生に座り込んだ。体育座りをして、顔を伏せる。するとじんわりと涙が出てきた。こころの中でじりじりとせり上がってくる気持ちがあって、涙が眼の奥から押し出されている気がした。
スカートにぽたり、と涙が落ちる。
「あれ、佐藤さん?」
呼ばれて、私は思わず振り向いた。
辺りの音は小さく感じていたのに、その人の声だけは澄んで聞こえた。柔らかくも凛とした声だった。
さらりと風になびく黒髪が視界に入り、薄黄色のプリーツスカートが、光を透かしてふわりと揺れた。
バイト先の先輩の、倉阪さんだ。
「今日、夕ご飯の当番でね。この近くのスーパーで特売やってたから来たの」
よく見ると、片手に持ったレジ袋の中には野菜がたくさん入っていた。
倉阪さんは一歩、私に歩み寄る。
お母さんの作ったマーマレードみたいな、きらきらとした雲と橙色の光が辺りを照らす。川沿いから涼しい風が吹き、切り揃えられた芝生が、控えめな波を打ち風にそよいでいる。
「何かあったの?」
心配そうな声音で話しかけられる。
「別に、なんでもないです」
覆い隠そうとしたのに、言葉の端っこがふるえた。涙がまたにじみ出てきそうで、川沿いの方を向く。
川の水面は緩やかに夕日を返して、さざ波の白色がきらきらと輝く。鉄橋を一本の列車が通り過ぎて、金属の軋む音が聞こえた。タタン、と小気味良く駆ける音が収まってくると、倉阪さんはよいしょ、と言いながらわたしの隣に座った。
「もし何か悩んでたら、聞くよ」
視線は合わせないままで話は進む。さざ波の景色に、倉阪さんの声がする。
「言葉に詰まるなら言わなくてもいいし、愚痴みたいなのでもいいよ。形にしたことで落ち着くこともあるし、吐き出すことは悪いことじゃないから」
そっと掛けられた言葉に、わたしは、ぽつり、ぽつりと、話し出した。
「……最近、友達がひそひそ話をしている時が、多くて。わたしが、入ろうとすると、何となく、避けられるんですよ」
目前の水面に投げるように、わたしは途切れ途切れの言葉をつなげる。
「昔、幼稚園生のときに、仲間外れにされたことがあって。そのときの原因は、おもちゃの取り合いだったんですけどねぇ。いままですごく仲良かった子に、話しかけてみても無視されてしまって。その時とてもショックを受けて。小学生や、中学生の時も、そういう場面に出くわしたし、された事もありました」
倉阪さんは静かに聞いている。時々、うん、と相づちが返ってくる。
「怖いんですよぉ。今でも。いままでの事が全部、なかった事になって、作ってきたものがいきなり壊されるのが。友達を疑いたくないけど、もしかして、また、と、考えて、しまって」
涙がぼろぼろ溢れてくる。オレンジ色の視界が滲む。
そっか、と倉阪さんが言う。たぶん、こっちを見ている。唇を噛んで堪えてみるも、涙は止まらなかった。
「私も、急な変化に戸惑ったことあるよ。裏切られたこともあるし。
でもたぶん、それぞれの気持ちとか、考えが行き違っちゃっただけなんだと思ってる。それ自体はきっと悪くなくって、いつもと違う道を行ってみようとか、ちょっと寄り道するようなもので。前もって言われることもあるけど、突然分かれたりする事もあるから、戸惑っちゃうんだよね。
でも、また戻ってきて会うこともあるよ。友達と喧嘩した時とか、もう一生口聞くもんか、と思ったって、次の日にけろっとした様子で話したこともあったし」
「佐藤さんはその友達のこと、信じてるんだよね。それだけ、大事に思ってるってことだよ。その思いは、大切にしてていいと思う」
倉阪さんはポケットの中を探って、何かをわたしに差し出した。見ると、ミルク味のキャンディだった。
「ま、きっと、大丈夫だよ」
その時わたしはどんな顔をしていたのかはわからない。
ありがとうございます、とお礼を言って、受け取ったような気がする。
大丈夫だよ、と掛けられる言葉がわたしの心をふわりと包んでくれた。本当はどうなのかは分からない。けれど、その優しさにまた泣いてしまう。背中をさする手があったかくて、わたしの頭の中を占めている、尖って刺さっていた不安な気持ちが、溶かされてきれいに丸く収まっていくようだった。
「なんだかすみません、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、倉阪さんは、
「そんな、お礼言われるほどじゃないし」と照れながら手を振った。
じゃあ、また明日ね、と綺麗に笑って去っていった。青色の夜が辺りを染め始めて、オレンジ色がゆるやかに退いていく。
わたしは振り返って、倉阪さんとは反対の方向に歩き出す。
きっと大丈夫だと言い聞かせて、夕暮れの道を進んでいった。
あとで、光里や亮介、清水くんが私を避けていた理由が分かった。
いつものように帰ろうとして、校門を抜けると、今日は用事があると言って先に帰ったはずの光里がいた。
え、なんで? と聞くと、にこっと笑いながら、いいからいいから、とわたしの手を引いて走り出した。されるがままに、わたしたちは走る。かばんに付けたストラップが、賑やかに振り動かされる。
光里の家、部屋の扉を開けるとーーぱん、と賑やかな音がして、色紙が降って私を迎えた。そこに居たのは、クラッカーを持った亮介と清水くんだった。
「彩音、誕生日おめでとう!」
ぽかんとした様子で、私は部屋を見回した。カラフルな飾り付けと、手作りのケーキ。どちらも手が込んでいて、前々から用意していたのだとその時分かった。それぞれ3人から、丁寧に包まれたプレゼントも貰った。
「3人で協力して作ったんだよ」
「ケーキなんて人生で初めて作ったな」
「彩音にバレないようにするの、上手くいってたかな?」
とわいわい話している。わたしは安心して、また泣いてしまった。じぶんは思っていたよりも泣き虫みたいだ。
ぽろぽろ涙を零すわたしに、どうしたの、と皆は慌てて声をかける。困った顔をした3人が、私の顔を覗き込む。なんでもないよ、と笑ってみせた。その時に表せる精いっぱいの笑顔で。
この事を、あとで倉阪さんに話そうと思う。
誕生日会のときに皆で撮った記念写真は、携帯の待ち受けにした。
とんとん、と靴を履く。いってきます、と言って、わたしは玄関の扉を開けた。
今日も天気は快晴だ。
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