第3話 境遇
「貴方と同じ夢を見る人がいる」
昔からの知り合いは、何でもないような顔をしてそう言った。
そんな話がある訳がないと思った。数年間生きてきて、似た類の話を聞いた事はあったが、調べてみると都市伝説だった、なんて事は腐るほどあった。体験したという人に喜んで会ってみれば、ただの物好きな奴で、呼び出された先では好奇の目で見られた。
何度期待を裏切られたかは数えたくもない。だからもう同じ境遇の人はいないと信じる事にしていた。
だけどあいつはいつものように、足を組んで座り、何が嘘で、何が本当かが分からない口調と面持ちでさらりと言った。普段はくるくると表情が変わるくせに、こちらが身構えて聞く話の時は考えが読み取れない所があった。あいつの言う事は常に冗談と事実が混ざり合っているから、すぐには信じられなかった。
けれど今回は一方的に、とつとつと物事を伝えてきた。ほとんど間は置かれず、返答は許されなかった。問い詰めようといくつかの質問をしたが、微笑を浮かべるだけで、確かな答えは返ってこなかった。自分が溜め息をつき、俯いた顔を上げた時には、忽然と姿を消していた。自分だけ残された真っ白な部屋で、考え直す。
そうして、今回は信じてみる事にした。
ただの、気まぐれだった。
コンビニで、今日はちょっと違う飲み物にしてみようと、何気なく手に取るのと同じような感覚だ。
繰り返し見てきた手順に則っていたため、何が起きるかは分かっていた。特に難しいことではないと予測がついたせいもあり、その場所へ行くことに躊躇いはなかった。久しぶりに見た白くて四角い街並みを記憶に留め、作り物ではない、実在する店へと足を運ぶ。
その時から、自分は淡い期待をしていたのかもしれない。
***
「いらっしゃいませー!」
私はできるだけ、大きく元気な声を出す。
私が勤めているのは、住宅地と駅前の合間にある小さなコンビニだが、割と繁盛している。朝は通勤途中のサラリーマンが多く立ち寄るが、大学に向かう道のりの途中にあるからか大学生や高校生も多い。駅の反対側の出口には新しいコンビニができたが、こちら側にはなく、常連さんのおばあちゃん曰く「とりあえずこの店にくれば困らない」らしい。食品、日用品、雑貨、結構色々な種類の商品が置いてある。駅から比較的近いとされるスーパーまでは少し距離があり、駅の中にはあまり食料品を扱う店はない。そんなわけで、地元の人たちにはそこそこ有り難いと思われている地元密着型コンビニで、私はアルバイトとして働いている。
その日、私は朝からの勤務で、裏で商品の在庫を確認したり、レジに立ったりとお店の中を行き来していた。通勤ラッシュの時間帯が過ぎると、お客さんの出入りが少し落ち着く。顔見知りの、小さな子どもを連れたお母さんや、おじいちゃんおばあちゃんがやって来ては少し雑談をして、お菓子や果物を買って帰っていく。そうしたのんびりとした時間が流れ始めるころに、若い男性がひとり、店にやって来た。
その人は、明るい金髪のボブカットに、赤縁眼鏡をかけていた。それだけでも目立つが、白地に水玉柄のシャツを着て、サスペンダーを付け、ビビッドな色合いのリュックを背負っていた。都会人のように、せかせかとした様子で店内を歩き始めた。渋谷とか原宿を歩いてそうな人だなと思った。
その人は紙パック飲料とパンのコーナーを回り、私のいるレジへとやって来た。商品を選ぶのに時間はかからず、すぐにレジへと向かってきたように感じた。
男性から渡されたのは、カフェオレとチョコクロワッサン。どちらも甘そう。慣れた手つきで袋の裏のバーコードを読み込ませ、ビニール袋に商品を入れる。金額を伝え、いつものようにお釣りとレシートを渡そうと、男性の顔を見たところでーーー思いがけないことを言われた。
「今すぐ、店奥に向かって逃げろ」
「え?」
私はつい、手が止まってしまった。
「数十秒後に、乗用車が店に突っ込んでくる」
相手の表情は殆ど変わらない。
店の外を指差してその人は言う。
まるで世間話をするかのような口調だった。驚きとか、恐れとか、そういった感情は乗せられておらず、ただただ棒読みで内容を伝えられた。
この人は何を言っているのか。理解が追いつかない。
あまりにもさらりと言うものだから、聞き間違えたのかと思った程、自然にその言葉は流れた。
けれどこれに似た状況は前にもあったと、止まりかける思考を巡らせて思い出す。
駅前の喫茶店で、初対面の、見慣れない格好の人に言われた言葉。妙な胸騒ぎがしたこと。雨の中歩いたこと。そして後に起こった出来事。忘れることなんて簡単には出来なかった。唐突に告げられる事象に、迷う暇はないと分かっていた。
頭の中の考え、感情の整理はつかないまま、足は動き出していた。
咄嗟に店の奥へ走り出した、その数秒後ーー店前の場所に駐車しようとしていた軽自動車がーバック走行のまま、店のドアを破り、突っ込んできた。
瞬間、衝撃が耳を刺した。
ガラスの割れる高い音と、車のブレーキ、エンジン音、棚の倒れる音が、立て続けに辺りに響いた。出入り口とは反対側にある壁に、勢い良く手をついて振り返った時には、それらの事が終わったあとだった。
店の出入り口付近は悲惨な状態だった。ドアは見る影もなく潰れ、雑誌や商品は床に散乱していた。見慣れた風景が一瞬で変わってしまった。
呆然とした様子で店内の光景を見ていたが、ふと我に帰る。居合わせたお客さんは皆呆気にとられていて、動けなくなっていた。尻もちをついて、その場にへたり込んでいる人もいる。急いでぐしゃぐしゃになった窓側の列に、巻き込まれた人は居なかったか見回してみる。幸い、お客さんは店奥にいて大丈夫だったようだ。
そういえば、さっきの人は、と思い見回してみると、平然とした様子で、離れた安全な場所にいた。辺りを確認する私を尻目に、その間をするすると歩いて、例の人は壊れた窓枠に手を掛けて、店の外に出ようとしていた。
「ねえ、待って!」
私は引き止めた。前回のように分からないまま事が運び、置き去りにされるのが嫌だったからだ。
男性は立ち止まり、振り返って私を見る。ふわりと金色の髪が揺れる。赤縁眼鏡の奥の、焦げ茶色の瞳は平然とした様子で私を見返した。
「あなた、名前は」
咄嗟に出た言葉はそれだった。
何故突然現れたのか、どうして起こる事を知っていたのか、と聞きたい事は沢山あった。
けれど、私は、まずこの人がどういう人なのかが知りたかった。が、
「言いたくない」
「え、」
「だって言う必要ないだろ」
あっさりと話しかけた言葉を払いのけられ、次に放つ言葉が思いつかない。
その人は車と壊れたドアの隙間から、器用に抜けて出て行ってしまった。
後には、唖然とした様子で立ち尽くした私と、お客さん達が残された。数秒後に、店長が慌ててやって来た。
彼の名前は、思いもよらないところから情報を得ることになった。
***
見知った街、ただし水浸しの街。
例の喫茶店に向かう。最初に行ってから何度か訪れてみているが、今日会えるかは確証がなかった。
街を覆う水圧で、喫茶店のドアが開かないのではと思ったが、杞憂に終わった。扉は一段高くなった階段の上にあった。水が覆うことを知っていたかのように思えた。金色のノブを回し、扉を開ける。軽やかなベルの音が出迎えるが、人の声はしない。前からそうだったかは覚えていない。
橙色の照明と、木のつややかな色、立ち込める珈琲の香り。店内を見回してみる。
すると、果たして、その人は居た。
「あ、お久しぶりですね」
細長いグラスに差された真っ黒なストローを回しながら、*は私を見つけるとそう言った。随分とのんびりとした様子だ。私はずかずかと歩み寄り、問い詰める覚悟で隣に立つ。
「あなた、この前はどういうつもりだったの」
半ば不審に思いながら話しかける。
*は、はて、と首を傾げる。
「あの言葉の通りでしかありませんが、何かお気に召さなかったでしょうか?」
きょとんとした顔と物言いで返されたため、思わず頭に血が上ってしまう。
手のひらで、机を思い切り叩いて言う。
「大ありよ、トラックが突っ込んでくるだなんて、思いもしないじゃない!」
結構大きな音がしたと思ったが、*の様子は変わらなかった。ストローを回す手を止め、こちらを一瞥する。目を細め、諭すように私に言う。
「しかし、あのままあそこに居たら、弟さんは助からなかったでしょう」
私はぐっと押し黙る。
勢い良く叩きつけた手のひらに、じんわりと痛みが広がっていく。
「正直に申しますと、死ぬ、と言ったのは行き過ぎた表現でした。その点につきましてはお詫び致します。ですが、内容を少々強い語気でお伝えした方が、気になって行動に移すのでは、と思いましてね」
確かに*が姿を消した後、言われた言葉が気にかかって、早々に店を出ていたのだ。翔太があの道を通りかかる時に鉢合わせていなかったら、恐らく事故に遭っていただろう。
そう考えると寒気がして、上手く反論は出来なかった。
店内に沈黙が訪れる。
かちかちと柱時計の音だけが鳴っている。店の外からは何の音もしない。この店には2人の他に生きているものの気配がしない。
けれど床板は綺麗に磨き上げられていて、照明の笠にも埃はひとつも見当たらない。整えられた空間に漂う、あたたかな温度が、抜け落ちたものを際立たせていた。
*はアイスコーヒーを一口飲む。
溶けかけた透明な氷が傾いて、からん、と軽やかな音を立てる。
「まあ、それは置いておきましょう」
どうぞ、と手振りのみで着席を促される。白っぽい指先に黒い爪が目立つ。渋々、私は*の隣の席につく。
「そういえば貴方、他に私に聞きたい事があるのでは?」
さも待っていたかのような口振りだった。
質問を聞いて、思考を巡らせる。何故か真っ先に出てきたのは、今日の午前中に会った金髪ボブの赤眼鏡をかけた人の事だった。
「そういえば、……あなたと似たような事を言った人がいた」
半ば疑いの視線を向けながら言う。
*は私に体ごと向き直る。縦縞の入った黒いベストの内側ポケットから、手のひらサイズくらいの四角くて白い紙切れを取り出して言う。
「もしかして、こういった格好の人でしょうか」
見せられたのは一枚の写真だった。
そこには3人の男女が写っていた。のっぽな人と、小さな人と、中くらいの人。見事に身長がばらばらだ。皆、歳は大学生くらいだろうか。何処かの校舎の前で撮ったもののようだ。2人はカメラ目線で笑っているが、真ん中に立つ人だけがむすっとした無愛想な顔でいた。
その人に、私は見覚えがあった。まさしく、店で見かけた男性だった。すぐさま私は問いかける。
「知っているんですか」
「ええ、まあ」
曖昧な返答と微笑。細められた目を見つめ返すも、この間のような迷いは全く見られず、動じる気配はない。不明瞭な答えにかかった靄を取り払うため、私は質問を重ねる。
「名前、教えてくれますか?」
なぜ? と*は短く返す。試されている気がすると、頭の片隅では思いながら言葉を返す。
「あの時買おうとしてた商品、まだ渡せてないから」
ただの理由付けだった。本当は、あの人がどういう人なのか、知りたかった。
そして、一言くらい、文句を言ってやりたかった。
ふ、とため息を漏らして*は言う。観念したように振舞っていたが、実のところは違うような気がした。
「彼は、上町直寛と言います」
かみまちなおひろ、と反復する。
丸みのある読みの名前なのに、人に対する態度と似合わないな、と思った。
***
真っ白なキャンバスに、筆に含ませた色を塗り付ける。一面は、掠れた線を何度か重ねた鮮やかな赤色に染められて、幾つものつややかな雫が画面を伝う。傍らの壁には数枚の写真が貼られ、足元には様々な色の絵の具チューブが散らばって置かれている。
控えめに部屋のドアが開けられ、誰かが入ってきた。その人はこっそりとした足どりでこちらに向かってきて、自分の後ろに立った。向こうは気付かれないように来ているようだがとうに自分は気付いている。でもあえて気付かない振りをした。そいつは、ゆったりとした口調で話しかけてきた。
「綺麗な赤色だねー」
ぴた、と手を止めて振り返る。そこには予想通り、背高のっぽの同級生、佐々木がいた。
「どうも」
短く返答する。視線を元に戻し、筆に油を含ませる。
佐々木は部屋の隅にある、傷だらけの小さな木椅子を持ってきて、側に座った。椅子の軋む音が聞こえ、一瞥する。体が大きいので椅子が小さく見える。
「何か用?」
パレットに、パーマネントイエローの絵の具を絞り出しながら聞く。
「やー、あのね。ちょっと上町くんに伝えておこうと思った事があってね」
「へえ。何?」
「たまに学校行く前に寄ってるお店があってね、そこの店員さんに上町くんの事を聞かれたんだ」
思わず佐々木の顔を見る。
突然振り向いたためか、佐々木はちょっと戸惑ったようだった。
「何て聞かれた?」
「え、それは……会計の時にお話してたら、こういう人知ってる?て聞かれて、あー友達ですよ〜、て返したら、どこ大学?とかいろいろ聞かれて」
佐々木は、薄緑色の頭をわさわさと掻く。
「で、教えたのか」
「うん。まあ〜悪い人じゃなさそうだったから」
朗らかに笑ってそう言った。
「いや、そういう問題じゃないだろ……」
微かに溜め息が漏れた。多分、あの女性店員だろう、と察しがついた。佐々木の住む家から大学までの道のりの近くに、あの店はあった。もう会わないだろうと、突き放した態度を取ってしまったが、この分だとまた何処かで遭遇しそうな気がする。
なんだか面倒なことになりそうだった。
「ごめん、やっぱり教えない方が良かったみたいだね」
眉を下げて、申し訳なさそうに佐々木が言う。いつの間にか俯いていた顔を上げる。考え込むと周りが見えなくなってしまう癖が、また出てしまっていたようだった。
「いや、気にしなくていい」
首を左右に振る。
まあ、また適当にやり過ごすだけだ。
その次の日。
昼休みの後、1限分だけ空いた時間。自分はキャンパス内の芝生に寝転んでいた。葉の間から漏れ出た光が、ちらちらと揺れて肌を撫でていく。穏やかな風が眠気を誘う。たまらずにひとつ、大きなあくびをした。瞼がゆっくりと降りていく。あと数秒で、眠りにつく–––その時に、
「あ、いた!」
頭上から声がした。
すばやく目を開ける。すると、そこにとある女性が立っていた。
「あなたに、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
青みがかった髪が風になびく。
自分の顔を覗き込む顔は逆光でよく見えなかったが、端正な顔立ちをしていることは分かった。そういえば、あの店で会った女性店員の顔をよく覚えていない。こんな顔だったか、と頭の片隅で考えながら、起き上がって言う。
「何ですか、突然。大体、なんでこの大学に」
「背が高い男の子、佐々木くんだったかな……その子が教えてくれて」
佐々木が教えたことは本当だった。あいつ、素直すぎて将来が不安だ。
「とにかく! この間は、うやむやのままになったけど……その」
少しの間があって言う。
「あなた、あの時何が起こるか知っていたの?」
それは、何度も聞かれたことと同じ質問だった。
「いきなり何を言っているのか、と思うかもしれないけれど……」
相手が何かを言っているが、自分の耳には入ってこなかった。
またか、という考えが頭を占めてしまった。
期待と、疑惑と、好奇の目。
一線を引いて、自分とは違う部類の「もの」だと知った上で、あなたは何をしてくれるの?どう楽しませてくれるの?と首を傾げて聞いてくる。
期待の篭った眼差しはもううんざりだった。向けられた注意を避けるため、自分は知らない振りをした。
「知りません」
自分は即答した、つもりだった。が、少しの間があったかもしれない。
「……本当に?」
藍色を含んだ、夜のような瞳がこちらを見つめる。
今更になって、気まぐれで助けてしまった事を少し悔いていた。
あの時限りで終わる事だと思っていたので、ここまで追ってくるとは思いもしなかった。
正直、
面倒臭い。
「ええ」
自分は会話を終わらせようとした。一刻も早く立ち去りたかった。
授業終了のチャイムが鳴り、ぞろぞろと講義棟から学生達が出てくる。女性が一瞬、視線を逸らした時を見計らって、自分は立ち上がる。坂になった芝生を、柔らかな風が滑っていく。
「それでは」
リュックを引っ掴んで、足早に立ち去ろうとする。ちょっと待って、と言われたが、構わずに歩みを早めた。
付きまとわれるのはごめんだった。
***
夕日が眩しい時間になった。紫色の細い雲が、夕日の手前を流れていく。
佐々木は6限があると言っていたし、今日は1人で帰ることにした。学校脇の山から、カラスが2、3羽飛び立って、カアカアと鳴く。
最寄り駅に近い方の校門から出ようと、昼間居た芝生の脇を通り過ぎようとした。ふと、歩みを止める。
まさか、あの人は居ないよな……という考えが頭を過る。辺りを見回してみる。それらしき人は居ない。
まさかな、と思い、前を見ると–––彼女はいた。
見つけた!と真正面から指をさされる。周りの何人かの学生が、何事かと見る。自分は途方に暮れた。
帰れよ暇人、と心の中で毒づく。
無視して校門へと向かう。出来るだけ早足で歩いた。ちょっと、と言われたが無視した。校門を出た先の曲がり角に設置されたカーブミラーを見ると、やはり女性は追って来ていた。
それは最寄り駅近くに来ても同じだった。向こうは息切れしながらも、歩みを止めない。
無視する事に耐えきれず、駅前の、比較的広い道端で立ち止まる。
「付いて来ないで貰えませんか」
投げかける言葉に棘があることは自覚していた。しかし許せばずっと付いてくる気がしていて、自分は苛立っていた。
向こうは押し黙る。そして何か言いたげな目で見据えている。昔の自分と重なって見え、過去の記憶が引きずられてきそうだった。勝手に手繰り寄せられようとする思考を断とうとする。昔のことは思い出したくもなかった。
踵を返して歩こうとした所で、相手から不意に声が発せられた。
「あなたに! 伝えたい事があるの」
構わず歩く。再度女性は呼びかける。
「待ってよ‼︎」
自分は、立ち止まる。
何度も呼び止められ、うんざりしていた。だが、今の言葉は、悲痛な叫びが含まれていた気がして何故だか引っかかった。
答えは返さず、ゆっくりと振り返って見ると–––
女性は走り寄って来ていて、鋭い視線を、自分に向け、叫んだ。
「数秒後–––鉄骨が落ちてくる!」
ぐん、と、思い切り手を掴まれて引っ張られる。華奢な腕で、どこにこんな力を持っていたのかという驚きで、されるがまま数歩移動する。
そして、その瞬間を待っていたかのように–––凄まじい音が頭上から降ってきた。
重厚な金属の衝撃音、コンクリートの地面を叩き割る音が辺りに飛び散った。
耳につく音がやっと収まると、先程まで居た場所には、何本もの鉄骨が積み重なっていた。地面のタイルは無残な形に割れている。
聞き慣れない大きな音で、耳鳴りが収まらない。その間を割って、ざわざわと喧騒が染み出してくる。
あと数歩先を歩いていたら、今頃下敷きになっていただろう。先ほど背中に感じた風を思い出し、少し寒気がした。
助かったのか、と誰かの口が呟いた。
呟いたのは自分だったと、言い終わってから気付く。
ふと手元を見ると、握られたままの女性の手は震えていた。俯きがちで顔はよく見えない。
けれど覚悟を決めたように、歯をくいしばって、こっちを睨むように見て言った。
「私も、見るの。夢の中で」
一言ずつ、絞り出されるように放たれた言葉は、蔑ろにすることを許さない迫力を持っていた。
藍色の瞳は、溜めた涙で揺らいでいた。けれど映した光は強い意志を持っていて、眉間に寄せた皺ははっきりとした線を結んでいた。
それは、今までに会った人々の中で初めて見た姿勢だった。
僅かに視界が開けた心地がした。
「出来るなら、話が聞きたい」
女性は言う。
視線は逸らせないままだ。
辺りは俄かに騒がしくなってくる。なのに辺りの喧騒は、遠い出来事のように感じる。実際はか細い声になっていたが、その人の声だけはやけに明瞭に耳に届いた。
手は震えながらも、力強く握りしめられている。普段ならば振り払うはずなのに、そうしなかった。
自分は何かを待っていた。
喉に何度かつかえながらも、自分は、答えを、返した。
「……少しなら、聞きます」
向こうの険しい表情が、幾分か和らいだように見えた。
「あんた、名前は」
「……倉阪 葵」
「自分は、上町 直寛」
もしかしたら、自分はこの時嬉しかったのかもしれない。
取り敢えず今は、この騒ぎから逃げ出すのが一番だった。集まってくる野次馬の間をすり抜けて、自分達は駆け出した。
夜がやって来る夕焼けの中を、人の流れに逆らって、つまづかないように精一杯走り抜けた。
***
コツ、コツ、と靴音が響きわたる。
鮮やかな朱色が、黒い空間を裂いて歩く。
床は周りの空間と同じように真っ黒だが、磨き上げられていて鏡のように物を映した。どちらが本物かが分からなくなるくらいだった。
その中で、ぽつりとひとつ、椅子が置いてあった。それは美しい蔓草が象られた焦げ茶色の木枠に、細やかな花の刺繍が施された布地が使われている、豪華なものだ。*は慣れた手つきでそれに腰掛ける。
椅子の傍らには、崩れ落ちた木製の額縁の残骸と共に、色とりどりの花が咲き誇っている。蔓草が絡んだ額縁は風化し、触れると軽い音を立てて割れてしまう。
*は片手に持っていた、金箔があしらわれた臙脂色の洋書のページをめくる。そこには様々な額縁のスケッチと、誰かの顔写真と、走り書きのメモが記されている。それは使い古されていて、紙は日に焼け、所々が千切れたりしている。半分以上失われているページもある。いつから読まれているのかは分からない。
暫くの間捲った後、徐に手を止める。そのままの状態でじっと動かない。沈黙の中、動くものは無くなる。
そして、数回の瞬きの間に、本は勢いよく閉じられる。
本を椅子に置き、*は立ち上がって軽く伸びをする。
さて、と呟く。
「これから賑やかになりそうですね」
此処には誰もいない。この暗闇は何処まで広がっているのかは、見当もつかない。
それでも、誰かに語るように言葉を投げかけた。
誰かに会えるのを待っていた。
答えが返ってくるのを待っていた。
何処かの誰かに、自分の声が届くことをただ信じていた。
額縁の残骸が、からりと音を立てて割れた。
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