1章 水面と白
第1話 予感
けたたましいアラーム音で目が覚めた。僅かな凸凹が見える白い天井と、そこから伸びている乳白色の傘を被った電灯が、見慣れた顔でこちらを見下ろしている。
勢い良く身を起こす。使わなくなった学習机の上の山積みになった本、クローゼットに入りきらず、引き出しに押し込まれた洋服。カーテンの隙間から射す光が、室内を仄かに黄色く照らしている。窓の外を、雀が数羽鳴きながら飛び立つ。
朝一番に見る景色はいつも通りだった。先程起きていた事が瞬時に消え、普段の日常が始まろうとしている事に呆気に取られていた。
あれは、
「…夢?」
ふあ、とあくびが出た。
「なんだ、夢か…危なかった」
やけに鮮明な夢だったなあ。寝ぼけた頭で納得し、目覚まし時計を手にとる。時刻は7時半を指している。まだ起きるには早い時間帯だ。
今日は仕事だが、昼からだから余裕がある。迷わず二度寝を決め込み、枕に向かって倒れこむ。ばふっ、と音が鳴り、光に埃が舞うのが見えた。間を置かず再び睡魔がやってきて、目を閉じる。しあわせな気持ちで満たされ、暖かい布団に包まれて眠りに落ちようとしたその時、
「葵ー!いつまで寝ているの‼︎」
1階から少し怒った、大きな声が聞こえてきた。驚いて目を覚ます。何やらがたごとと物音もする。
聞き慣れた声は、きっとお母さんの声だ。せっかく二度寝ができると思っていたが、放っておくとこの部屋までやってきて、掛け布団を剥がされるに違いない。もしかしたら布団と共に天日干しにされてしまうかもしれない。実際にやられたことはないけど。
また今度にしよう、と緩慢な動作で起き上がる。淡い水色の遮光カーテンを勢い良く開けると、雲ひとつない青空が広がる。朝日がまぶしく、目を細める。
眠い目をこすりながら階段を降りると、せわしなく足音を立てて、リビング内をあっちこっちへ移動しながら朝の準備をするお母さんがいた。
「あ、葵、おはよう!」
「おはよう」
「今日天気が良いからってね、洗濯機2回目回したんだけれども、もう出る時間になっちゃった……だから、葵、洗濯物干してくれる?」
「ええーー?」
「お願い!」
と、それだけを言い残して、洗面所の方に行ってしまった。
朝のお母さんはいつも慌ただしい。もうちょっと早めに起きてやれば良いのに…と思うが、先ほど二度寝を決め込んだ自分がいたことを思い出し、人の事は言えないと気付く。渋々言葉を飲み込んだ。
テーブル席では、弟の翔太が食パンを頬張っている。
「お母さん、また姉ちゃんに洗濯物頼んでるね」
「そうだねえ、もう私が代わってやった方が良いのか、ね」
少しからかうような視線を投げてきた弟と話しながら、冷蔵庫のドアを開ける。牛乳を取り出し、円筒型の透明なコップに注ぐ。昨日でペットボトルのアイスコーヒーを切らしてしまったから、今日は牛乳のみだ。コップをテーブル席に置き、翔太の隣、私の指定席に座る。お母さんは忙しいにも関わらず、朝食はきちんと用意する。食パンと、サラダと、ベーコンエッグ。イチゴジャムとブルーベリージャムがあり、マーガリンもある。毎朝用意されるご飯にはありがたみを感じている。
「姉ちゃん、今日は帰り何時になる?」
「んー、終わるのは6時かな。7時前には帰ってくるよ」
「そっか、りょーかい」
食パンを口に放り込み、飲み込まないうちに席を立つ。こら、お母さんに怒られるぞ、と注意するも、へーきだよ、とあしらわれる。翔太が食器を流しに置いた所で、お母さんが駆けて戻ってきた。
「ほら、翔太、もう学校に行く時間よ! 準備はできたの?」
「やべ、歯みがきがまだ!」
「もー、早くしなさい! 遅刻するわよ!」
大変だなあ、と思いつつ、フォークを手に取り、サラダを食べ始める。
「じゃあ、葵、よろしくね!」
「ねえちゃん、行ってきます!」
「はあい、行ってらっしゃい」
2人が出て行った後、バタン、とドアが閉まる。玄関でのお見送りが済むと、家の中は幾分か静かになった。外からは小学生達の元気な声と、駆けていく足音が聞こえた。リビングに戻ると、付けっ放しのテレビでは、交通事故のニュースが流れている。
今日の天気予報をやってくれないかな、と思いながら席につき、食パンをかじる。
『……町の住宅地で、歩道を歩いていた小学生の列に、乗用車が突っ込み2名が重体、運転手も意識不明の重体とのことです……』
事故現場の様子が映し出される。電柱にぶつかり無残に壊れた車、黄色い面を翻す規制線の張られた道。生々しい血の跡が、うっすらと道路に付いている。事故に遭った小学生の年は翔太と同じくらいで、少し嫌な気持ちになった。
けれど、それ以上の気持ちは起こらなかった。遠い町の出来事だ。
目玉焼きの黄身を割ると、とろりと皿の上に流れ出し、こんがりと焼けたベーコンの上に広がった。
今日の天気は昼までは晴れ、次第に雲が多くなり雨が降るとのことだった。昼前には家を出るから、早く洗濯物を干さなければ。
その前に食器を水に浸けておこうと思い、蛇口をひねる。透明な水が出てシンクを濡らす。食器に満たされた水が揺らめくのを見た時、ふと違和感を感じた。あれ、さっきも見た気がする。でもさっきって、いつの事だ?
首を横に振る。寝ぼけているのかな。そう思い、洗面所に向かう。何度か水で顔を洗うと、目が覚めてきた。黒目がちの瞳が、鏡の中からこちらを見ている。ーーぼさぼさの髪型で。
「うわあ、この状態で庭に出なくて良かった……」
ぼやきながら、ヘアアイロンの電源を入れる。
***
「倉阪さぁん、どうしたんですかぁ?」
甘ったるい声で呼びかけられ、はっと我に返る。手に持っていたスナック菓子の袋を落としてしまい、慌てて空中で受け止める。
「ぼーっとしていたみたいなんで……。大丈夫ですかぁ?」心配そうな顔付きで、佐藤さんはこちらを覗き込む。
「大丈夫、ちょっと考え事をしてただけだから」
少し笑って、答える。
「そうですかぁ?」
すいませーん、とお客さんが呼ぶ声が聞こえて、はぁい、と彼女は返事をし、ぱたぱたと走ってレジに向かう。
佐藤さんは高校生で、アルバイトとして働いている。舌足らずな話し方をする所が少し気になるが、人懐っこい雰囲気を漂わせているせいか、あまり嫌な感じはしなかった。くりくりとした目と、可愛らしい見た目から、チワワみたいな子だなと私は思っている。本人にはまだ伝えていない。
私は手に持ったままのスナック菓子の袋を、棚に並べ始めた。袋と中身がこすれ合い、袋を棚に置くたびに微かな音が鳴る。そう広くはない店内には私と、佐藤さんと、お客さんの若い男性1人だけだ。店長は裏で作業しているらしい。
さて次は何をするかな、と考えていると、お客さんがレジを済ませて出て行った。ありがとうございましたぁ、と間延びした佐藤さんの声が聞こえた。
入れ替わりに入ってきた人は、常連客のおばあさんだった。
「いやだわあ、急に雨が降ってきちゃった」
見ると、いつもはいているスカートが濃い色に変わっている。持ってきた傘からは雫がぽたぽたと垂れている。
「わ、大丈夫ですかぁ? これ、どうぞぉ」
と言って、タオルを差し出す。
「まあ、彩ちゃん、ありがとう。さっきまで小雨だったんだけど、いきなり大雨になってねぇ。」
「ええ、雨ですかぁ。嫌だなぁ」佐藤さんが眉を下げて相槌を打つ。
いきなりだものねぇ、と言いながら、おばあさんは受け取ったタオルで腕や肩を拭いている。
外を見ると、先程までの晴れ模様が嘘のように、黒色の雲が垂れ込めていた。切れ間なく降る雨粒がアスファルトの道を叩いていて、店の前の道を自転車に乗った人が急いで通り過ぎた。車輪の通った跡を水飛沫が勢い良く飛び散って、白く煙った道路を車のライトが照らす。駐車場の大きな水たまりは、波紋で乱され辺りの物を歪めて映している。まるで別世界のような風景の変わり様だった。
おばあさんは帰り際に、
「これからどんどん雨が酷くなるらしいから、あなた達、帰りには気を付けてね」
と言い残し、大雨の中を帰っていった。
***
店長に見送られて店を出る。傘の表面を、水が滝のように伝って流れてくる。腕時計は6時を指している。
段々雨が酷くなってきていた。予報より降水量が多い気がする。土砂降りの雨の中で、ズボンや靴は濡れ、すっかり色が変わってしまっていた。
雨宿りできる場所は、と探していると、帰り道の途中にある駅前のコーヒーチェーン店が目に入った。体は少し冷えていたし、コーヒーで暖まるのが良いかもしれない。急いで目の前の横断歩道を渡る。
自動ドアをくぐると、店員さんの元気な声が出迎えてくれた。レジでコーヒーを1杯頼み、トレイに乗せて辺りを見回す。店内にはそれなりにお客がいた。パソコンを操作している人、本を読む人。楽しそうに話をしている人。それぞれの時間を過ごしているようだった。
窓際のカウンター席が丁度空いていたので、椅子を引き寄せて座る。ここなら外の様子がよく分かる。雨が弱まり次第、帰らなければならなかった。あまり帰りが遅いと、お母さんも翔太も心配するだろう。外では色とりどりの傘が、目の前の横断歩道を渡っている。信号のリズムによって人や車が流れては、止まることを繰り返す。
ぼんやりと景色を眺めていると、
「あ、先日の」
不意に出入り口側の方から、声がした。
見ると、見知らぬ人が立っていて、軽くお辞儀をしてきた。手に持った焦げ茶色のトレイには、暖かな湯気が立ち上るカップが乗せてある。私はつられてお辞儀をする。
「喫茶店ではお世話になりました。まさかまた出会えるとは」
微笑んで親しげに話しかけてきたその人は、中性的な顔付きをしていた。白いシャツの上からベストを着ていて、黒のスラックスをはいている。胸元には大きめの、ストライプの入ったリボンを付けている。靴はよく見るとハイヒールで、紅色の靴裏が全身白と黒色の格好の中で目立つ。髪は後ろで、白いリボンで一つに結ばれているようだ。容姿からは男性なのか女性なのか、判断がつき難い人物だった。はあ、と中途半端な返事をする。返答に困ってしまった。
第一に、私はこの人を知らなかった。
「……あの、私、あなたと何処かでお会いしましたか?」
もしかして私が忘れているのか、と思い探りを入れる。そうだとしたら大分失礼だ。
「はい、つい最近」
相手はすぐさま返答した。
最近、と頭の中で必死に思考を巡らせる間に、その人は私の隣の席に着いた。手元のカップから、ブラックコーヒーの香りが漂う。
「覚えていませんか」
和やかな口調で聞かれて、戸惑ってしまう。そんなに前のことではないはずだし、会って話をしたのなら忘れるわけはない。この外見なら忘れる事はないと思うけれども……。喫茶店。けれど最近、行った覚えは、ない。
「先日、貴方に教えて頂いたお店に行ってみたのですが、何処の料理も良く、感謝しています」
「ど、どういたしまして」
しばらく相槌を打ちながら話を聞いた限り、私はこの人に色々なお店を紹介したようだった。ガイドブックに載るような有名店から、地元の人しか知らないような、路地裏のお店まで。しかしこれだけの情報を交わしているにも関わらず、この人の事が思い出せなかった。
ふと思い当たり、話題がひと通り落ち着いた所で質問をする。
「あの、あなたのお名前は?」
名前を聞いたら思い出すかもしれない。そう思い聞いてみた。
「ああ、そういえば申し上げていませんでしたね。私の名前は***と言います」
「? ……すみません、もう一度仰っていただけますか」
思わず聞き返す。
「***と、申します」
何故か、名前の部分だけが雑音混じりになってしまい、聞き取る事が出来ない。街中の喧騒は、音自体は聞こえるのに、個々の内容は頭に入ってこない。それとよく似ていた。しかしこの距離で話しているというのに、突然聞き取れなくなるというのは、おかしな話だった。
相手は明瞭な声で発しているのに、大事な部分だけすっぽりと抜け落ちてしまっている。もしかして、耳が悪くなったかな、と思っていると、
「あ、お気になさらず。慣れていますから」
と、ひらひら手を振りながら、笑って返された。慣れている?そんなに聞き取りづらい名前なのだろうか。
「そういえば、この店にはよくいらっしゃるのですか」
「いえ、そこまででは……今日は雨が酷くて、雨宿りしようかと思って入ったんです」
「確かに。暫く止みそうにはありませんね」
*と名乗ったその人は、外の景色に目を移す。*の組まれた指先には、黒く塗られた爪が並んでいて、耳には控えめなピアスが付けられている。シャツやスーツにはシワや埃一つ付いていない。その様子を見ていて、私はふと、違和感を感じた。
外は大雨だというのに、服はどこも濡れていなかった。靴にも雫は付いていないし、傘を持っている訳でもなさそうだった。本降りの雨の中を、全く濡れずに来られるものなのだろうか?
「どうしました?」
向き直った*が私に問いかける。
「いえ、何でもないです」
落ち着くために、コーヒーを一口飲む。口の中に、暖かな薫りが広がった。
言い知れない不安が募ってきていた。普段人と話していると、どういう人かが分かってきて、打ち解けていくはずなのに、その兆しが見られない。
余計に分からなくなってくる。この人は、一体何者だ?
私がそっと一瞥すると、少しの間だけ目が合った。
一瞬だけ視線が泳いだ、気がする。
*は僅かに口を開けた後に口を結び、ややあって覚悟を決めたように、再び開いた。
「ああ、そういえば。伝えようと思っていた事があるんです」
先程の間を取り繕うように、こちらに体を向け、真っ直ぐに見つめてきた。瞳は真夜中の空のように、紺色を纏い黒く澄んだ色をしている。瞬きと共に長い睫毛が揺れる。
「貴方、急いで向かった方が良いと思いますよ。」
落ち着き払った様子で、次に言われた言葉は耳を疑うものだった。
「急がないと、」
ー死にますよ。
ーえ?
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
*はにこりと微笑んだ、
と、同時に何かが割れる音が店内に響いた。
「も、申し訳ありません!」
音のした方を見ると、店員さんが誤ってコップを落としてしまったようだった。先輩と思しき人物がやって来て、割れた破片を持って来た箒とチリトリで、手早く片付けている。
そういえば、と思い隣を振り返る。
しかし、そこには誰も座っていなかった。コーヒーカップも、人のいた形跡すら見当たらなかった。
目を離したのは数秒だ。
何かの間違いでは、と思い立ち上がる。椅子の配置に乱れた様子はなく、辺りを見回しても、念のためトイレを確認しても居なかった。この間に、店の外に出て行ったのだろうかと、途方に暮れてしまった。元いた席に腰を下ろし、私は暫く誰もいない席を見つめていた。
雨脚は弱まっていた。傘を差さなくても、どうにか歩ける程だった。早足で家路を急ぐ。
先程のコーヒー店での出来事が、ずっと頭にこびり付いていた。結局誰だったのかは、分からないままだった。現れたと思ったら消えてしまい、翻弄されたまま終わってしまった。横に首を振り、忘れる事にする。幻でも見たのだと、納得できないがそういう事にしておく。
駅前から道なりに歩いていき、交差点のある角を曲がると、馴染みのある通りに出た。車の通りはあるが、歩道がきちんと整備されていて、家に向かって道なりに歩くと、緑の多い児童公園がある。小学校の通学に使っていた懐かしい道だ。見慣れた道も今は青色に薄暗く、道沿いの家からは窓の黄色い光が漏れている。どこかの家からは夕飯の匂いが流れてきていた。
小走りに、家への道を急ぐ。小さな水たまりをいくつも飛び越す。雨によって濡れた道路には、住宅地や信号の明かりが反射して輝いている。
何処かで見た風景だな、と思った。
「ーあ!姉ちゃん!」
道路を挟んだ向かい側から、聞き慣れた声がした。思わず足を止める。
「…翔太!どうしたの?」
「姉ちゃんいつもより帰り遅いからさ、どうしたのかなーと思って…」
翔太がたん、と、ひとつ足を踏み出す。左手には脇道から合流する細い道。地元住民しか使わないような、坂の急な道だ。しかし、今は車のエンジン音がやけに近くで聞こえた。音は小さくならず、寧ろ大きくなってきていた。減速する気配がない。大通りの道から聞こえているのかと思い、ふと向きを変えようとしたその時、
細道から飛び出してきたのは、
銀色の車体を揺らす、大きなトラック。
瞬間、こちらに駆け寄ろうとした翔太の動きが止まる。運転手の青ざめた表情が、薄く濁ったガラスを通して見える。ブレーキが踏まれ、甲高い音が、住宅地の静けさを引き裂いた。動きがひどく遅く感じる。
目の前で起きようとしている事態が信じられない。嘘だと思いたかった。
しかし、このままでは翔太は、轢かれてしまう。最悪の場合が頭を過ぎる。
ふと、朝の夢が思い出される。
水たまり、信号、横断歩道、道路、子どもたち、公園、トラック。轢かれる直前の記憶。倒れながら黒色に狭められる視界。思い出す。誰かがこちらを見ていたこと。白いワンピースを着ている女性。長い髪が紺色の軌跡を描いていた。泣きそうな顔をして立っていた。よく知っている人物。
あれは、誰だ。誰だったか。毎朝、見ている。
不機嫌な表情と乱れた髪。紺色の瞳。
そうだ、間違いない。見間違えるはずがない。あれは、
ーー私だ。
夢の視点がぐるりと変わる。私は私自身が轢かれるのを見ていた? 違う、そうではない。視点が普段よりぐんと低くなる。薄れる意識の中、伸ばした腕が空を切る。橙色の袖が目に映り、パーカーの紐が揺れる。運動靴は脱げ、宙に舞う。少し離れた場所でこちらを見ている、驚いた表情の私は、誰かの名前を叫んだ。悲痛な叫び声が耳についた。
おぼろげだった断片が、線で結ばれる心地がした。思考がぴんと張られた糸のように、何をすべきかが明瞭に見渡せた。
迷う暇は無かった。地面を力強く蹴り、手をめいっぱい伸ばし、できる限りの力で翔太に飛びつく。車体が2人諸共に触れようとする間近、ぎりぎりの所で足先がトラックの進路から外れる。掠めた拍子に風が髪を揺らした。固まったまま動けなくなっていた翔太は抵抗せず、私の腕に抱きとめられたまま、濡れた歩道の上に、仰向けに倒れ込んだ。直後に、ひどく高い、叫ぶような音を出しながらトラックは止まった。近くを歩いていた人が駆け寄ってきて、辺りの家では窓が開かれる。ざわめきが私たちを中心にして広がっていく。
横倒しになった、雨で霞んだ視界に誰かの足元が映る。大丈夫か、怪我は、と周りからくぐもった声が聞こえる。ぼんやりとした意識の中にいたが、状況に気づき、急いで起き上がる。片腕に痛みが走る。着地した際、肘をコンクリートの地面で腕を擦りむいたようだ。じんわりと血が滲む。怪我には構わず、倒れている弟に呼びかける。
「翔太、怪我はない⁉︎」
「う、うん」
翔太は軽く頭を打ったようで、後頭部をさすりながら身を起こした。
助走を付けなかったため、押し切れるか不安はあったが、なんとかトラックと接触せずに済んだようだった。
「よかっ、た」
語尾が震えた。吐き出した息と共に、涙が滲み出てきた。堰を切ったように次から次へと、ぼろぼろと落ちてきて止まらない。思い出したかのように、今更足が震え出した。翔太は驚いて、大丈夫か、姉ちゃん、と声をかけてくる。集まってきた人達を見渡しながら、私の顔を見ている。
濡れてしまい乱れた髪の毛が、首筋に張り付く。安堵感と、すぐ目の前まで迫っていた恐怖が頭の中でない交ぜになり、どうしたらいいか分からなかった。体の底から込み上げてくる熱は気持ちが悪く、堪らず俯く。誰かが通報したらしく、サイレンの音が遠くから聞こえる。小雨は音もなく、辺りを静かに濡らしていた。
***
ざり、ざり。
砂を擦り、かき分ける音が響く。
この部屋は白ばかりで、一見すると何も見えない。物の境界線が薄く、淡く落ちる影が無ければ、自分の立っている所すら分からなくなりそうだ。辛抱強く目を凝らしていると、徐々に物の輪郭が現れてくる。壁の境目と、窓と、本棚。進行方向の数メートル先に、誰かがいると気付き歩みを止める。木製の白く塗られた机を挟んだ向こう側の椅子に、その人は座っていた。手元の雑誌に目を落としていて、俯きがちで顔はよく見えない。背景に溶け込むように、その人も真っ白なトレーナーとズボンを身に着けていた。ただ、髪の黄色だけが、この空間の中では目立っていた。音もなく吹く風に、ふわりと微かに揺れている。
「こんばんは」
声を掛けてみるも、特に反応はない。
ぱらりとページをめくる音が代わりに響く。
「貴方、助けには行かなかったんですね」
手が止まる。次いでゆっくりと顔を上げ、こちらを見るや否や、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。細めた目がこちらを睨む。
「何しに来たんだ」
「何って、久しぶりに様子を見に来たのですよ」
微笑んでそう返す。このやり取りはいつもの事だった。例えるなら挨拶に近い。
「赤の他人の事だろ、自分には関係ない」
そう言いながら、再び視線を落とそうとする。その前に、私は言葉を重ねる。恐らく彼の興味を引くであろう言葉をつなぐ。
「関係は、ありますよ」
「は?」
顔を上げる。試みが上手くいったようだ。
「事故に遭いそうになったのは、ーー貴方と同じ夢を見る人です」
「そんなわけが、」
「信じられませんか?」
「……それはそうだろ、今までに会った事がない」
「興味、ありませんか?」
私は柔らかく質問を投げかける。
彼は視線を脇に逸らす。
無音状態の時間が訪れる。ここでは私達以外から発する音は何もない。自身の心臓の動く音が聞こえる。耳鳴りがしてきて、長く居ると息が詰まりそうだ。 数秒間の思案の末、彼はこちらを見て言う。
「……まあどちらかと言えば、ある」
「それは良かった」
私は彼に気付かれないよう、小さくため息を漏らす。傍らにある椅子の背もたれに手を置き、それを支点にくるりと一回転し、腰を降ろす。微かに木の軋む音が鳴る。
「良かった?」
向こうは怪訝そうな顔をしている。昔からの付き合いだが、大人になっても作られる表情に昔の面影はあるものだな、と思う。脚を組み、重ねた両手を膝の上に置く。
「近々、お会いする事になると思いますよ。そう遠い話ではありません」
なんだって、と疑問を呈す彼。徐々に声が大きくなってきていた。
「どういう事だ」
鋭い視線がこちらを刺すが、構わず私は言葉を繋げる。向こうが耳を傾けている間に、伝えられる情報は渡しておく。機会を逃すと聞いてもらえない事が多いためで、長い付き合いの末の行動だった。
「まあ、貴方の方がこの事に関しては先輩になるのですから、
宜しくお願いしますね。上町君」
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