2-23 地下室の探偵

 ワトソンに起こされたホームズは、頭の中に淀んでいる眠気を振り払うのに、いつも以上の労力を要した。昨夜ベッドに入ったのが、普段よりもずっと遅い時間だったせいだろう。

 洗顔と入浴を終え、昨日と同じく使用人たちが使う食堂で朝食を摂り始めたホームズは、


「ねえ、昨日は遅くまで起きてたね」


 ワトソンに言われて、


「ああ……」


 呟くように返事を返した。


「何だよ、その気のない声は」ワトソンは不満そうにしたが、すぐに大きな目を細めて、にやりとした表情になると、「もしかして……謎が解けた、とか?」

「……」

「肯定も否定もしないってことは、そうなんだね?」

「ノーコメントだ」

「何だよ-、かっこつけんなよー」

「やめろって」


 ホームズは自分の脇腹を突いてくるワトソンの手を払った。


「……何かあったんだね?」


 ワトソンは真面目な顔をして訊いた。


「何かっていうかな……」ホームズは千切ったパンを口の中に放り込むと、「確かに……お前の言うように謎は解けたかもしれない」

「おっ」


 ワトソンは口を丸くする。が、ホームズは表情を全く変えないまま、


「だがな……」


 と口にしたきり黙ってしまった。その口から漏れるのは、パンを咀嚼する音だけだった。


「何か」とワトソンは、「不都合なことがあるんだね? 謎を解いたために不幸になる誰かがいるってこと? だから、自分の推理を披露することを躊躇っている?」


 この疑問にも、ホームズは咀嚼の音だけしか返さなかった。

 それからしばらく、二人は黙々と料理を腹に収める作業を続けていたが、


「なあ」

「どうした?」


 ホームズに声を掛けられて、ワトソンが顔を向けると、


「あそこにいる男」

「ん?」


 ワトソンもホームズの視線の先に目を向けた。そこには、


「使用人の人でしょ?」


 ワトソンの言うとおり、使用人と思われる何の変哲もない中年男性が、ひとりで朝食を摂っている光景があった。


「ああ、そうなんだが」ホームズは、パンで乾いた喉に水を流し込んで、「あの男、どこかで見た気がする」

「どこかでって、このお城で働いてる使用人なんだから、廊下ですれ違ったり、晩餐の席で見かけてたっていうだけじゃないの?」

「そうかもしれないが……」ホームズはワトソンの耳に顔を近づけて、「俺たちのことを監視してるような気がしないか?」

「……そう?」


 と答えつつも、ワトソンもホームズと同じように声量を抑えていた。


「ああ、見ろ」とホームズは食堂内を見回して、「今、この食堂には俺たち以外には、あの男ひとりしかいない」

「……だね」


 ワトソンもぐるりを見回す。


「変じゃないか? 今朝は俺が寝坊したから、俺たちはいつもよりも朝食の時間が遅くなってしまった。使用人たちはとっくに自分の仕事を始めてる時間だろ」

「ああ……なのに、あの人は悠々と……」


 ワトソンはもう一度、食堂の隅で辺りをはばかるように朝食を摂っている男を見やった。

 彼我の距離からして、その声が届いたとは思いがたいが、男は急に料理を掻き込むペースを速めると、いそいそと立ち去るように食堂を出て行ってしまった。声は届かずとも、二人の視線が向いていることは察知したのかもしれない。

 男が出て行くと、それと入れ替わるようにして、


「あっ、テセラさん」


 ワトソンが食堂に姿を見せた人物の名を口にした。


「おはようございます」テセラは二人のもとに駆け寄ってきて、「すみません、いつもの時間に食堂に来たのですが、お二人のお姿が見えなかったものですから、少し仕事を片付けてきました」

「毎日すみませんね、テセラさん」とホームズは、「普段のお仕事を放り出させてしまって」

「いえ、私もホームズ様とワトソン様と一緒にいるほうが面白いですから」


 笑顔を見せたテセラに、ワトソンが、


「でも、それも今日で終わりになるかもしれませんよ」

「えっ? それは、どういう意味でしょう?」


 テセラが首を傾げると、さらにワトソンは、


「実はですね……ホームズが謎を――むぐっ!」


 ホームズに口を押さえられた。きょとんとするテセラを前にホームズは、


「いえいえ、何でもありません」


 片手でワトソンの口を塞ぎながら、もう片手でパンを囓った。


「それはそうと、テセラさん」

「はい?」

「先ほど、テセラさんと入れ違いにここを出て行った使用人の方がいたのですが、ご覧になりましたか?」

「ああ、ええ」テセラは一度出入り口を向いてから、「お名前は存じ上げませんが、確か……レイチェット様付きの使用人の方だったかと」

「レイチェット様の?」

「だと思います――ああ、そういえば」

「何ですか?」

「昨日、城門前広場でも見かけましたよ」

「広場で? ということは、アストル様の披露式典のときということですか」

「そういうことになりますね」

「ぷはっ」未だ自分の口を覆っていたホームズの手を振りほどいて、ワトソンが、「そのときじゃない? どこかで見たことがあったって」

「そうか」

「あの方が、どうかされたのですか? ホームズ様」


 テセラはもう一度出入り口を向く。


「いえ。ちょっと気になっただけで……ごちそうさまでした」


 ホームズが朝食をたいらげて立ち上がると、


「ホームズ様、今日は、どちらに?」


 テセラが例によって本日の捜査方針を訊いてきた。が、ホームズは小さく首を横に振ると、


「テセラさん、申し訳ありませんが、今日の捜査はお休みです」

「えっ?」

「俺は、ひとりで街をぶらついてきますので、どうぞテセラさんも通常の業務に戻って下さい」

「そうですか」


 少し残念そうな顔をしたテセラに、すみません、と笑顔で詫びるとホームズは、


「今日は、お前も好きにしてていいぞ」


 ワトソンにもお役御免を言い渡した。


「えー、何で? 僕も一緒に行く」


 口を尖らせるワトソンに、


「『ひとりで』って言ったろ。じゃあな」


 ホームズは手を上げると、食堂を出て行った。残されたテセラとワトソンは、その背中を見送ると、首を傾げて顔を見合わせた。



 城を出て城門をくぐったホームズは、昨日「石化王子」の披露式典が行われた城門前広場を抜けて、街の雑踏の中に身を投じた。

異界人いかいびと〉であるホームズにとっては、この世界の風景は目にするもの全てが新鮮なはずだったが、今の彼の瞳には、中世ヨーロッパを彷彿とさせる建物で構成された街並みも、そこを行き交う人々も、何も映ってはいなかった。

 ある店の前で足が止まった。提げられた看板を見るに、そこは酒場らしい。昨日、式典のあとにテセラに連れられて入った店よりは幾分かうらぶれ、怪しい雰囲気をまとっている店だった。どうやらあてもなく歩いているうちに、大通りから何本か奥に入った裏通りに足を踏み入れていたらしい。ホームズは〈自分の世界〉にいた頃に贔屓にしていた、隠れ家のようなバーを思い出した。特にこだわりがあったわけでもなく、ただ「いかにも探偵が入り浸っていそうだ」という雰囲気に酔うためだけに行き着けていた、薄暗いバーを。

 最初からそういう塗装がされていたのか、ただ薄汚れてそうなってしまっただけなのか判断の付かない、その酒場の黒いドアにホームズは手を伸ばした。そこへ、


「ホームズ様ですね」


 背後から声を掛けられた。ドアノブに触れかけた手が止まる。振り返ると、そこには、頭からすっぽりとフードを目深にかぶった、二人連れの男が立っていた。


「そうですが……」


 半身になってホームズが答えると、


「ちょっと、ご一緒してもらいたいのですがね」


 ホームズが無言で返答を保留したままでいると、金属音が聞こえた。向かって右の男の腰辺りからだった。ホームズは息を呑んだ。鞘から抜き放たれた小剣ショートソードの切っ先が、まっすぐに自分の顔先に突きつけられる。


「……何者だ、お前ら」


 言いながら周囲に目を配ったが、この狭く薄汚れた通りには、ホームズと怪しい二人組以外に人の姿はなかった。酒場の中からも誰も出てくる気配はない。


「ご一緒していただけますね」


 ドスの効いた有無を言わさぬ口調と、さらに切っ先との距離を狭められたことで、ホームズは黙って男の言葉に従うしかなかった。

 教会の鐘の音が聞こえた。午前九時を知らせるものだった。



 あれから何時間が経過したのだろうか。

 背中に切っ先を突きつけられたまま、薄汚れた通りを歩かされたホームズは、ほとんど廃墟同然となった建物の地下室に連れてこられた。ひとりの男がかざすランタンの明りを頼りに、もうひとりの男が地下室の柱に荒縄でホームズの両手をきつく縛り付けた。ホームズはその間、男たちの正体、目的などを尋ね続けたが、二人の男は終始無言で作業を続け、ついにホームズの質問に答えることのないままに地下室をあとにした。見るからに厚く重そうな木製の扉が閉ざされ、外側から扉にかんぬきが落とされる音が聞こえ、男たちが階段を上っていく足音も途絶えると、部屋は真の闇と静寂に満ちた。

 さるぐつわをしていかなかったのは、ここでどんなに大声を上げても外には漏れないという確信があるためだろう。現にホームズが何度助けを求める声を張り上げても、一向に階段を下りてくる足音は聞こえない。声はそう広くない地下の室内にこだまするだけで、扉の隙間を漏れているのかさえ怪しかった。


 何時間が経過したのだろうか。

 教会の鐘は、午前零時を皮切りに三時間ごとに鳴らされることになっているらしいが、酒場の前で九時の鐘を聞いてから、三時間は経っていてもおかしくないと思う。にもかかわらず、午後十二時の鐘の音が耳に出来ないということは、やはりこちらから発する声も外には届いていないと考えるべきだろう。もうホームズはしばらく前から声を出すのをやめ、なるべく体力を温存する方向に作戦を変えている。とはいえ、その先は全くのノープランではあるのだが。

 男たちは余程こういう仕事に手慣れているのか、ホームズの手首を拘束する荒縄は、絞めすぎて鬱血を招かない程度の、しかし決して外れようのない絶妙な縛り方をされている。ホームズは、縄を解こうとする行為が自分の手首を傷つけるだけの結果しかもたらさないことを知り、縄に抗うのもやめていた。

 さらに時間が経過する。こんなことなら、もっと朝食を腹に入れておけばよかったと後悔し始めた頃、


「――!」


 音を耳にしてホームズは神経を研ぎ澄ませた。階段を下りてくる足音に違いなかった。が、先ほどの男たちのものとは違うようだ。人数はひとり分で音も軽い。足音が止まった。扉の前に辿り着いたのだろう。ホームズは僅かに躊躇したが、


「……誰だ?」


 扉の向こうにいるはずの人物に誰何すいかした。


「ホームズ?」


 返ってきた声は聞き憶えのあるもの。ワトソンのそれだった。


「ホームズ? そこにいるの?」

「ワトソンか!」


 扉越しに交される声の間に、がたがたという音も混じる。閂が上げられようとしている。最後に響いた、ひときわ大きな、ごとり、という音が、外された閂が床に落ちたことを知らせた。直後、


「ホームズ!」


 扉が開かれた。ランタンの明りが、それを手にした人物の顔を斜め下から照らす。


「……ワトソン」


 ホームズは、地下室に飛び込んできた褐色の肌の少年の名を呼び、安堵のため息を漏らした。

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