2-15 十七歳の肖像

 一番最初に席を立ったのはアレイドラだった。


「もういいのか、アレイドラ」


 ラヴォル王の問いかけに、はい、と小さく答えると、


「では、私はこれで」


 言い残してアレイドラは部屋を出る。食事は半分以上が残されていた。彼女の背中が見えなくなるまで目で追っていたホームズは、


「お客人、ワインはいかがでしょう?」


 使用人のひとりに声を掛けられて振り向いた。その手にはワインボトルが収まっている。


「あ、いいですね。いただきます」


 ホームズが所望すると、使用人はテーブルの上のグラスにワインを注ぎ入れた。


「捜査は、もういいの?」


 ワトソンに問われると、


「日が落ちると、もう寝る時間なんだろ」


 ホームズはワインで満たされたグラスを口元に運んだ。


「じゃあ、僕も」


 請われて使用人はワトソンのグラスにもワインを注ぐ。どこからどう見ても〈未成年〉であるワトソンが美味そうにワインを喉に流し込む様を、ホームズは複雑な心境で見やった。と、そこに、


「ラムペイジ様」


 テセラの声が聞こえた。視線を向けると、テーブルを挟んだ向こうでも同じようなやりとりが行われている。テセラがワインボトルをラムペイジのグラスに差し出していた。


「ありがとう」


 微笑みながらラムペイジが答えると、テセラがボトルを傾けて赤い液体をグラスに注ぎ込む。その表情もまた、ラムペイジと同じように笑みを浮かべていた。若干頬が赤く染まっているのはワインのせいではないだろう。彼女を含め使用人たちは料理もワインも、ひと口たりとも口にしていないはずだ。ラムペイジの顔にも赤みが差しているが、これもワインが原因ではありえない。この席で彼が酒類を口にするのは、今注がれたワインが初めてのはずだからだ。

 テセラがグラスにワインを注ぎ入れる動作は、きわめてゆっくりとしていた。まるで、少しでもラムペイジのそばにいられる時間を引き延ばそうとしているかのように。ラムペイジもまた、それを望んでいるようにホームズには思えた。

 テセラがボトルを上げる。ワインが常識的にグラスに入る容量に達した、達してしまったためだ。ホームズにしてくれた使用人がそうであったように、用事を済ませた彼ら、彼女らは、本来であれば速やかに各自の立ち位置――壁際に戻る決まりとなっているのだろう。が、テセラはグラスにワインを注ぐという使命を終えたにも関わらず、青年の隣から離れようとはしなかった。ラムペイジがテセラを見つめる視線に引力があり、それに引き留められているかのようだった。


「テセラ」

「――は、はいっ」


 レイチェットに名を呼ばれ、テセラは背筋を伸ばした。


「ここはもういいから、お前はアレイドラの皿を片付けてきなさい」

「承知しました……」


 テセラは深々と一礼して下がる。国王の姉のひと声が、ラムペイジの視線の引力からテセラを引き剥がした。ラムペイジは名残惜しそうにテセラを見送り、隣に座る自分の母親にも視線を向けた。その視線が意味するものは何だったのだろうか。

 ホームズは母子以外の二人の様子も窺う。父親のファスタードは、皆よりもかなり早い段階から口に入れるものを料理から酒類に変え、それを堪能しており、いましがたのやりとりなどまるで目に入っていないようだ。ラヴォル王のほうは……彼の視線はまっすぐにラムペイジに向いていた。その深いまなざしに込められたものは、ホームズにも察せられる気がした。昔の自分と同じ境遇を持つ若者への想い、あるいは同情。現イルドライド国王ラヴォルは、かつて、貧しい農民の娘と身分違いの恋に身を焦がし、周囲の猛反対を押し切って王妃に迎え入れたという話だった。

 ホームズは、アレイドラの食器の片付けを始めたテセラを横目で見やる。無言のまま食器を配膳台に載せていくテセラの表情は沈んでいた。「石化王子事件」のことを依頼に来たときに見せていたものとは、また別種の憂いに思える。目が合った。


「ホームズ様……」テセラは、無理やり作ったという笑みを浮かべて、「お代わりはいかかですか? まだ料理もお酒も十分な用意がありますが」

「いえ、俺は、もう結構……」


 そう答えると、テセラは一礼し、配膳台を押して会場を出て行く。その表情は元の沈んだものに戻っていた。


 それから、ラヴォル王が席を立ったことで、使用人の大半も彼に続いて会場をあとにした。レイチェットは、完全に酔いが回った旦那のファスタードを使用人に運ばせると、自分も席を立った。一度出入口で立ち止まり、ホームズに一瞥いちべつをくれていく。不審人物を見るような目で。これで晩餐の席に残るのは、ホームズとワトソン、ラムペイジ、それと数人の使用人たちだけとなった。これを好機と見たホームズは、


「あの、ラムペイジ様――」


 声を掛けつつ周囲に目を走らせた。ホームズの考えを察したのだろう、ラムペイジもぐるりを見て、


「ここはもういい。下がれ」


 僅かに残っていた使用人たちを下がらせた。最後のひとりが一礼して会場を出たことで、会場内がワトソンも含めた三人きりになると、


「ラムペイジ様、少し、伺ってもよろしいでしょうか」

「構いませんが、事件のことは、私はほとんど情報を持っていませんよ。鉄仮面についても、さきほど話した以上のことは、何も――」

「テセラさんについて」


 ホームズの口からその名前が出ると、ラムペイジは少しだけ沈黙してから、


「彼女が、どうかしたと?」

「テセラさんとラムペイジ様は、その……特別な関係でいられるとお見受けしましたが」

「……ええ、そうです」諦めきったような嘆息を漏らして、ラムペイジは、「さすがですね、この僅かな時間で」

「ああ、いえ、お二人とも、相思相愛な空気を、これでもかというくらいに発していましたから。特に、テセラさんは」

「あとで、よく言っておきましょう」


 ラムペイジは苦笑した。


「ですが……お母様のレイチェット様は、お二人のことに賛成ではない?」


 それを聞くと、ラムペイジの苦笑から「笑」だけが消えた。


「そのとおりです。母は、私を遠縁の貴族の娘と結婚させようとしているのです。母は家柄や身分にこだわる性格なもので」

「お父様の、ファスタード様のほうは?」

「父も母と同意見でしょう。父も元は貴族の次男で、家柄だけで母の婿に収まったような人間ですから」

「とはいえ、結婚――おっと、まだ勇み足でしょうか――お付き合いする相手くらい、自分の意思で選ぶべきでしょう。テセラさんやワトソンから聞いた話では、この世界では家柄や身分などの間に引かれた境界は、昔に比べてかなり曖昧になってきているということですが」

「ですが、消えてはいません。それに、どんなに薄くなろうが、その〈境界〉が消えてなくなってしまうことなど、決して有り得ないと私は思っています。いえ、これは私だけでなく、この世界の誰もが心の底では感じていることですよ。今の時代の空気は、第二次人魔じんま大戦が終わった戦後の開放感が作り上げている、時代がかかるいっときの病のようなものです。このまま平和な時代が続けば、また必ず人々の間に身分や差別の境界線は太く上書きされます」

「……ラヴォル王は、どうなのです? あの方なら、自分自身の境遇と重ね合わせて、ラムペイジ様を応援してくれるのではないかと思うのですが」


 ホームズは、国王がラムペイジに向けていた眼差しを思い浮かべた。


「それこれとは別問題です。ラヴォル王は、当然我が国の最大権力者ですが、それはまつりごとに関してだけの話です。個人間のプライベートな問題にまで口を挟む権限はありませんよ。それに、母はラヴォル王の実姉じっしですからね。国王とはいえ、やはり年上のきょうだいのやることについては、口出ししにくいのではないでしょうか」

「そういうものですか」

「はい。それに、私には母の気持ちも分からないではないのです」

「どういうことでしょう?」

「ご存じのとおり、前王が残した三人の子供のうち、母だけが貴族を伴侶としました」

「そうですね。ラヴォル王の亡き妃であるロミア様は農民だったそうですし、アレイドラ様も小さな商家のご出身だとか」

「ええ、ですが……ご覧になったでしょう。父、ファスタードは、あのとおりの人間でして……アレイドラ叔母様のほうが、どれだけ気品や礼節をお持ちのことか。亡きロミア様も、元農民とは思えない品格を持ち合わせた方だったそうです。それなものですから、きょうだいの中で唯一貴族を伴侶としたというのに、母はいつも肩身の狭い思いをしていました」

「その苦労は……理解できる気がします」

「だから、私には、厳選に厳選を重ねた、これぞ貴族というに相応しい女性を結婚相手とさせ、身分の高いもの同士の結婚が持つ意味というものを、ここイルドライドで復権させようと考えているのだと思います」

「なるほど。ですが……ラムペイジ様は、お母様の思惑には乗らないおつもりなのでしょう」

「絶対に!」


 ラムペイジの瞳に強い決意が燃え上がった。


「ああ、失礼」とラムペイジは表情を弛緩させて、「テセラは、代々この王家に仕えてくれている使用人夫婦のひとり娘ですが――彼女の両親はすでに病で亡くなっています――他の王侯貴族の誰と比較しても、決して劣らない品格を身につけていると思っています……」


 ラムペイジはここで言葉を止めると、


「いえ、そんなものは本当はどうでもいいのです、品格とかそんなものは。私は彼女のことを愛していますし、テセラも同じ気持ちでいてくれています。王家に入る人間として相応しくないとか、そんなことは関係ありません。私はテセラを伴侶とし、一生涯ともに暮らしていきたい。それだけです」


 熱っぽく語るラムペイジを見て、初めて自分の知る「十七歳」という年齢相応の表情を見せるようになったなと、ホームズは思った。

 ラムペイジは、グラスに残っていた僅かばかりのワインを喉に流し込むと、


「それで、ホームズ殿、この話が、事件と何か関係があるのですか?」

「――えっ?」ホームズは、はたと気付いて、「い、いえ……こういった不可解な事件においては、一見無関係に思える事柄が意外な形で事件に関わっている、というケースが少なくないものですから」

「ははあ、そういうものですか」


 あくまで自分が実際に体験したことではなく、好きで読んでいたミステリ小説の中での話だが。


「もう、こんな時間ですね」


 ラムペイジは、部屋の隅で時刻を知る目安として灯されているロウソクを見た。晩餐が開始された時分に点火されたそのロウソクは、その蠟で出来た細い体のほとんどを溶かしきっていた。立ち上がったラムペイジは、


「私は、もう床に就きますが」

「ああ、俺たちも、そうします」


 ホームズも急いで立ち上がり、ちびちびワインをなめていたワトソンの腕を取り、彼も席から引き剥がした。


「では、私がお部屋まで案内しましょう。使用人は下がらせてしまいましたからね」

「そんな、ラムペイジ様自ら……誰か捕まえて部屋の場所を訊きますよ」


 ホームズは固辞したが、


「いえ、もしかしたら……」ラムペイジは笑みを浮かべて、「もしかしたら、私がテセラと一緒になるためには、この城を出て行かねばならなくなるかもしれません。そうしたらもう、イルドライド王家という立場はなくなるわけですから、こういったことにも慣れておかないと」

「そんなこと……」

「とはいえ……アストルが今の状態でいる限り、次期国王は私ということになります。もしそうなれば、自分の都合だけで簡単に城を出て行く、などと言えるはずもないのが現実なのですけれどね」


 ラムペイジは憂いを帯びた笑みを浮かべたが、すぐにその表情から憂いだけを剥ぎ取って、


「もし、ここを出るとなったら、私はテセラと、どこかの街道沿いに小さな宿駅でも開こうかと考えているのですよ」ラムペイジは恭しい動作で、「お客様、お部屋にご案内いたします」


 ホームズとワトソンを出入り口に誘った。

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