1-6 凶器の問題

 探偵は、いわゆる「名探偵」にあこがれを抱いていた。

 小学五年生だった彼は、学校の図書館で運命的な一冊との出会いを果たす。児童向けにリライトされた、コナン・ドイル著『バスカビルの犬』だった。その本の面白さに魅せられた彼は、以降「本格ミステリ」と呼ばれるジャンルの小説を読み漁るようになっていった。

 物語としての魅力や、仕掛けられたトリックにも当然惹かれたが、本格ミステリの構成要素の中で彼がもっとも夢中になったのは、「名探偵」という存在に対してだった。超能力も、現代技術を遙かに超えた超科学の力も使うことなく、知恵と知識(と、人によっては少々の腕力)だけを武器に悪人と戦う名探偵たちは、いつしか彼の中で「何よりもカッコいいヒーロー」としての地位を築いていったのだった。


 名探偵たちに対する若き探偵のあこがれは、本格ミステリを読むごとに強くなっていった。

 エラリー・クイーンにあこがれては、「どうして自分の父親は警視でなく普通のサラリーマンなのか」と理不尽な憤りを抱き、エルキュール・ポワロにあこがれては、友人たちを「モナミ(我が友)」と呼び出して戸惑わせたりした。あるいは明智あけち小五郎こごろうにあこがれては、「少年探偵団」を結成させるため近所の小学生たちに声を掛けまくり、不審者に間違われたときもあった。金田一きんだいち耕助こうすけにあこがれていたときは、何日も洗髪をしない頭髪を掻きむしってふけを飛ばし、クラスの女子生徒全員に白い目で見られたこともあった。

 多くのミステリで出会ってきた、綺羅星の如き名探偵たちの中でも、名探偵との「ファースト・コンタクト」を果たした「シャーロック・ホームズ」の存在は彼の中で別格だった。上記のように彼は学生時代、多くの名探偵たちの言動を真似してきたが、シャーロック・ホームズになりきることだけはしなかった。それは、「自分がホームズになるときは、本当に名探偵として活躍するとき」と決めていたためだった。


 このような、彼が送った、中高生男子としてごく一般的な青春時代は、当然のように将来の進路に「探偵」いや「名探偵」を選ばせることになった。

 だが、名探偵たちが駆使する「推理」や「知恵」は「リアルなもの」でも、彼らが迎え撃つ「不可能犯罪」だけはそうではなかった。

 大学を中退し、所属していたサークルOBの誘いで飛び込んだ探偵事務所で彼が挑む仕事には、絶海の孤島で起きる密室殺人や、高名の依頼人が持ち込む国家存亡の危機を孕んだ事件などはなく、そのほぼ全てが浮気調査などのための個人の身辺調査に終始していた。

 ホームズにあこがれていた少年は、ホームズになれないまま、しかし、「現実の探偵」としての仕事にまっすぐに向き合い、懸命にこなしながら生きてきた。その心に「名探偵」へのあこがれを抱いたまま。いつの日か、ホームズになれる日が来ると信じながら。



 探偵の目の前には、三メートルほどの距離を置いて、数名の男女が扇状に並んでいた。場所は狭い暗い事件現場から、広くて明るい図書室に移っている。居並ぶ男女は全員事件関係者だった。共に行動してきた長老アルファトライン、衛兵騎士団第一団長ミラージュの他に、被害者ブラストフの孫リムロック、犯人と目された魔法使いウォーパス、死体の第一発見者となったウィリーらの他に、ウォーパスの孫エイシーも加わっていた。

 探偵が「謎が解けた」と告げると、アルファトラインは、「関係者全員を呼び集めるので、その前で真実を語って欲しい」と頼み、このメンバーを呼び集めたのだった。


 六名の老若男女を前にして、探偵は高ぶる気持ちと緊張を抑えていた。

〈事件関係者全員が集まる中で殺人事件の謎解きを披露する〉

 自分の人生でこんな瞬間が訪れようとは、夢にも――いや、夢に見てはいたが――思っていなかった。

 関係者全員には、すでにアルファトラインから、これから探偵が謎解きをするということを伝えてあるという。六名の男女が見つめる中、こほん、とひとつ咳払いをしてから探偵は、


「さて――」

「お待ち下さい、異界人いかいびと

「なんだよ!」


 いきなりアルファトラインに出鼻をくじかれた探偵は抗議の声を上げた。


「異界人よ」だが長老は、探偵の憤り具合を無視するように、「そなたが到達した真実を語る前に、こう宣言してもらいたいのです」

「なに?」

「『我、これより真実のみを語らん』と」

「……なにそれ? 探偵が推理を披露する前に言う口上なんて、『さて』のシンプルなひと言で十分だろ」

「そうしてもらわなければ、これから異界人がどんな言葉を駆使したとて、この場にいる誰ひとり納得させることは出来ないでしょう」

「どういう意味だよ――」


 探偵はなおも抗議を続けようとしたが、言葉を飲み込んだ。自分を射る関係者たちの視線が、明らかにアルファトラインの言うことに同調する色を見せていたためだった。だが、その中にひとりだけ、他のものとは異なる色の視線を射しているものがあった。探偵が〈犯人〉と推理した人物だった。

(恐れているのか。これから俺が推理を披露するのを)

 そうであれば、ここは長老の言葉に乗ってみるのも手だと探偵は考えた。〈魔法〉などというわけの分からないものが幅を利かせているこの世界においては、こういった儀式的な言動が与える心理的効果というものは、自分が考える以上に大きいものがあるのではないか? そのセリフを口にすることで、自分の推理に何か神託的な効果を付与することが出来るのなら、犯人に抗弁を許すことなく、容易に〈落とす〉ことも可能になるのではないかと探偵は思った。


「いいだろう」探偵は仕切り直すように、またひとつ咳払いをすると、「我、これより真実のみを語らん」


 アルファトラインに言われたセリフを復唱した。その瞬間、明らかに場の空気が変わった。やはり、このセリフには何か神託的な効果があるのだと探偵は確信した。


「さて、魔法研究者ブラストフが殺害された、この事件。被害者を除けば現場に出入りした人間が三人に限られることや、一切外傷のない死体の状況、そして、被害者がまるで今際の際に指し示したかのような魔法書の存在により、犯人は魔法書に書かれた〈死の接触タッチ・オブ・デス〉を唯一使用可能な人物で、二番目に現場を訪れた魔法使いウォーパスであると考えられていた。衛兵騎士を志す孫に絡んだ動機があることも、容疑に拍車を掛ける要因となった」


 探偵は一度関係者を見回した。誰ひとり口を挟んでくるものはなく、皆、固唾を呑んで探偵の言葉に耳を傾けているように見える。


「だが、これは大きな間違いだ。彼、ウォーパスは犯人ではない」


 そう言った瞬間、容疑者と目されていた老魔法使いは、引き絞った顔色を変えないまま深く嘆息し、その隣に立つ女性エイシーは、安堵の表情を浮かべて祖父の細い腕を握りしめた。


「ブラストフを殺した犯人は……」探偵は、その人物の目を見つめて、「あなただ、リムロック」


 衛兵の鎧を着た大柄な男性を指さした。そのリムロックは固く唇を結んで俯き、それ以外の関係者たちは、おお、というどよめきの声を発し、犯人と称された男の顔を見た。彼ら、彼女らは、だが、リムロックの顔の他に、探偵のほうにも何かを確認するかのように、ちらちらと視線を向けていたのだが、犯人の顔を真っ直ぐに見据えたままの探偵がそれに気付くことはなかった。


「だ、だが……」ミラージュが一歩進み出て、「リムロックが犯人だとして――いや、それは間違いがないのだが」と、また探偵に一瞬だけ視線を投げてから、「どうして彼に〈死の接触〉が使えたのだ? あれは、ウォーパスほどの魔法の使い手でなければ扱えない魔法のはず……」

「被害者を死に至らしめたのは、その〈死の接触〉とかいう魔法じゃない」

「なんだと? だ、だが、ブラストフの死体には何の外傷も――」

「ああ、しかも、毒物を投与された痕跡もなかった。だが、まったく外傷を付けずに人を殺すことは、魔法なんかを使わずとも出来る」

「ど、どうやって?」

「撲殺だよ。ブラストフは、頭部を強打されたことによって、脳硬膜下血腫のうこうまくかけっしゅを発症し、それが原因で死亡したんだ」


 犯人と名指しされたリムロックも含めた全員の顔に困惑の色が浮かんだ。〈この世界にない言葉〉を耳にしたためだろう。だが今度は少し前のミラージュのように、そのことを問い質してくるものはいなかった。


「脳硬膜下血腫とは、頭部を強く打つなどしたときに現れることのある症状で、脳を覆う硬膜の下で出血が起こり、その溜まった血液が次第に脳を圧迫していき、やがて死に至るというものだ。傷は外部からは目視不可能な頭蓋骨の中だけで起きるため、外傷は全く見られない」

「撲殺……殴り殺した、ということか」ミラージュは一度、リムロックの太い二の腕を見て、「しかし、それなら、どうして二番目に書庫を訪れたウォーパスは、ブラストフが眠っていたなどと証言したんだ? まさか、死んでいるものを寝ているのだと勘違いするとは考えがたいが……」

「それは、ブラストフが本当に寝ていたからだよ」

「なっ! お前、今さっき、ブラストフはリムロックに撲殺されたと言ったばかりではないか――」


 ミラージュは、恐ろしいものでも見るような目で探偵の目――と、それ以外の一部――を見たが、ずっとリムロックに視線を投げたままの探偵は、やはりミラージュの視線の動きには気付かないまま、


「脳硬膜下血腫という症状は、頭部に衝撃を受けたからといって、即死してしまうというものではないんだ。さっき言ったように、この症状が原因で死に至る理由は、脳内に溜まった血液が脳を圧迫してしまうことにある。つまり、脳内に流れ出る血液が致死量に達する――脳が圧迫に耐えきれなくなる――それまでの時間は生き続けていられるということだ。その時間は個人差や出血量にもよるだろうが、概ね数時間程度だと言われている。つまり、九時に頭部を殴られたブラストフは、そのまま――ウォーパスが見た机に突っ伏したような姿勢で――昏倒した。だから眠っているだけに見えた。それから、ウィリーが昼食を届けに来る十二時までの間に、脳内に流れ続ける血液が限界量に達し、ブラストフはついに絶命してしまったというわけだ。恐らくブラストフは、絶命する間際に一度だけ意識を取り戻したんだろう。だが、脳硬膜下血腫の影響で意識が朦朧としてしまい、体のバランスを崩して床に倒れてしまった」

「魔法書は、そのときに一緒に床に落ちたのか」


 ミラージュが言うと、探偵は「そうかもしれないが」と前置きしてから、


「あの魔法書は、被害者が自分の意思で床に落としたというか、体がぐらついたその瞬間に抱きかかえて、一緒に床に倒れ込んだというのが正解だろう」

「どうしてそんなことをする必要があった?」

「犯人、いや、凶器を知らせるためにだよ。自分を殺した〈凶器〉は、この魔法書であると自分が死んだあとに捜査に来る騎士団に伝えるために。ブラストフとともに倒れた勢いで床を滑った魔法書は、彼の手前にページを開いた状態で止まってしまった。最後の力を振り絞ってブラストフは右手を魔法書に差し伸べて、『これが自分を殺した凶器だ』とメッセージを残したんだ。俺のいた世界では、こういうのを〈ダイイング・メッセージ〉と呼ぶんだが」

「どうしてそんなことを? ブラストフは撲殺されたんだろう。であれば、〈死の接触〉は無関係ではないか!」

「そうだ、魔法自体は無関係だ。関係するのは魔法書そのものだったんだ。ブラストフはリムロックに素手で殴られたのではない。彼はリムロックに頭部を、あの分厚い魔法書で殴り付けられたんだ」


 ああっ! という皆の声が図書室に響いた。


「そう。被害者を殺した〈凶器〉は、魔法書に書かれていた呪文ではなかった。まさに魔法書そのものが凶器となっていたというわけだ。机の上には紙とペン、インクも揃っていたから、本来であれば犯人の名を書き残すのが一番だったのだろうが、昏倒から覚めたばかりで意識が朦朧としていたブラストフは、そうする前に自分の体が倒れてしまうことを自覚したんだろう。そうなってしまえば、もはや自力で立ち上がり、ペンを手に取ることは不可能。ならば、せめて自分を殺害した凶器だけでも明らかにしようと……」

「倒れる間際に魔法書を掴んだ、ということか。じゃ、じゃあ、開かれていたページが〈死の接触〉のものだったのは……」

「落ちた拍子に偶然そのページが開いたというだけだろうな」

「なんと……」

「俺は、あの魔法書を持ち上げようとして、想像以上の重さだったことから、もしかしたら被害者は、これで頭部を殴られたことで死んでしまったのではないかと思った。素手で頭部なり顔なりを殴れば、間違いなく何かしらの外傷は残るだろうが、分厚い本のような平坦で重いものを頭部を叩き付けられたのであれば、外傷が付かない脳硬膜下血腫の症状が引き起こされる可能性は高いのではないかと考えた。部屋には、あの魔法書以外に、同じように人を撲殺できる〈凶器〉となりうるものはなかった。被害者があの魔法書に手を差し出すような姿勢で死んでいたことからも、これが凶器として使われた可能性は極めて高い。であれば、〈あの魔法書自体を凶器として扱える〉のは誰か? 老齢で体力のないウォーパスや、まだ七歳の子供であるウィリーには無理だろうし、脳硬膜下血腫の特徴である、殴られてから死亡するまでのタイムラグも考慮に入れれば、犯人は衛兵のリムロック以外にはあり得ないと推理したんだ」

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