1-4 古代魔法書

「着きました」


 馬車が停まると同時にアルファトラインが言った。客車から降りた探偵を、堅牢な石積みの建築物が迎えた。


「事件の起きた魔法研究所です」


 アルファトラインが先導し、探偵、ミラージュの順に三人は建物の中に入った。

 ロビーを抜けて廊下を歩いた先、両開きの扉を開くと、天井の高い空間が広がった。室内は本がみっしりと詰まった書架と、机と椅子とで満たされている。まだ事件が起きた翌日であるためか、広い室内に利用者と見られる人間はひとりもおらず、軽装の鎧姿の衛兵が数名、歩哨に立っているだけだった。


「俺のいた世界の図書館と、見た目はあまり変わらないな」


 ぐるりを見回して探偵は呟く。アルファトラインは、部屋の一角に空いた廊下への出入り口を示して、


「あそこからブラストフの書庫に出入り出来ます」

「なるほど。あれなら、受付カウンターとの間に遮るものが何もないから、出入りした人間は隈無くチェックできるということだな」

「そのとおりです。行きましょう」


 通りがかる度、ミラージュに向かって歩哨の衛兵が敬礼をする中、三人は一列になって現場に向かった。

 廊下は途中に枝道も他の部屋もなく、一度九十度に折れ曲がってから、突き当たりに現場となった書庫の扉があるだけの狭く短いものだった。アルファトラインが扉を開け、探偵は現場の書庫に足を踏み入れた。


「晴れた真っ昼間だってのに、よくこんな窓ひとつないところで仕事をする気になったもんだ」


 唯一の光源であるランタンの炎が、揺らめく明りを室内に投げかけている。探偵は、被害者が変わり者だというのは本当だなと思った。探偵も〈自分の世界〉にいた知り合いに、昼間でもカーテンを閉め切り、照明の下で仕事をする作家がいたことを思い出した。そのほうが集中できるそうで、そういった人間は世界を問わず存在しているらしい。壁、天井と見回し、最後になって探偵は、いよいよ床に視線を落とした。


「彼が被害者のブラストフか」

「はい。異界人いかいびとを召喚することが決まったため、死体は移動させずに残したままにしてあるのです」


 探偵が訊くと、アルファトラインは答えを返した。

 老人が床に俯せに倒れている。服装は、ここに来るまでの間に見かけた、道行く人々のものとそう変わらない。この世界の住人の一般的な普段着なのだろう。無論、すでに息はしていない。四肢は力なく放り出されているが、その右腕だけが何かの意思を示すかのように頭上方向に伸びており、その先には、一冊の本が開かれた状態で置かれていた。


「これが、例の……」

「はい。彼、ブラストフが現在の研究対象としていた古代魔法書オルドグリモアです。先日、冒険者のパーティがさる地下迷宮ダンジョンから持ち帰ったもので、この研究所が買い取ったのです。古いもののため、所々破れて欠損しているページもありますが、そもそも完全な状態で残っている古代魔法書というものは、まずありませんから」


「ふうん」と探偵は屈み込んで開かれたページに目を落としたが、ひっかき傷かミミズがのたくったような文字|(らしきもの)が羅列されているだけだった。


「何が何やらさっぱり分からない」

「何だ、お前、古代文明語は読めないのか」


 ミラージュが馬鹿にしたような声を掛けた。


「当たり前だろうが! こんな初めて見る文字、何語なのかも、さっぱり――!」


 そこで探偵は、重大なことに気が付いて立ち上がった。


「おい!」

「どうしました?」


 探偵はアルファトラインとミラージュを順に見て、


「どうして、お前たちには、俺の喋る〈日本語〉が通じているんだ? それに、お前たちも、どうして日本語を話している?」


 ミラージュは、この日何度目かの怪訝な顔をしたが、アルファトラインは落ち着いた表情を崩さないまま、


「細かいところはお気になさらぬほうがよいでしょう」

「いやいや! 全然細かくないって! 気にするって!」

「全ては、総世神そうせいしんプライオネルの導きによるものです」

「アルファトライン様、この男は何を言っているのですか? また意味不明な単語を」


 ミラージュの言っている単語とは「日本語」のことだろう。その本気で訝しがっている彼の表情と、隣で泰然自若としている老人を見て探偵は、本当に細かいことは気にしないほうがよいのかもしれないと思った。


「と、とにかく」探偵は、くるりと魔法書に向き直ると、「ここには確かに、被害者を殺した死の魔法とやらが書かれていて、それを使えるのは、容疑者である魔法使いのウォーパスだけということなんだな」

「はい。この部屋に出入りした三人の中では。というよりも、この街に限って言えばウォーパスただひとりしかいないと言い切ってよいでしょう」

「そうか。具体的に、その魔法は、どんなふうにして使うんだ? やっぱり、手から派手な光が出たりするのか?」

「〈死の接触タッチ・オブ・デス〉に、そのような視覚効果ヴィジュアル・エフェクトはありません。呪文を唱え終えて〈待機状態〉になった魔法使いが手を触れるだけで、触れられた人間は絶命してしまうという恐ろしい魔法なのです。これは現在は失われた魔法のひとつで、古代遺跡や地下迷宮ダンジョンから発見された古代魔法書や巻物スクロールの中に書かれているものが、時折発見されるというだけです」

「触っただけで殺せる……」

「ただ、その効力を発揮するためには、肌に直接触れる必要があります。鎧や服越しでは駄目なのです」

「肌に触れる……じゃあ、触れた場所によっては、指紋が採れる可能性もあるな――」


 振り向いた探偵は、きょとんとした表情の二人を見ることとなった。


「な、何だよ、その顔」

「お前、また意味不明な言葉を」


 ミラージュが呆れたような表情をした。


「意味不明って……指紋だよ、指紋。指紋が採取できれば、本当にウォーパスが被害者の体に触れたかどうかを判断できる……」


 探偵の声は先細りになって消えていった。未だ怪訝そうな顔を崩さないミラージュから、探偵はアルファトラインに視線を向けて、


「も、もしかして……」


 アルファトラインは、こくりと頷くと、


「今、異界人のおっしゃった〈しもん〉というものも、この世界にはない言葉ですな」

「オー・マイ・フォールズ!」


 探偵は崩れ落ち、床に両手両膝を突いた。


(※ヘンリー・フォールズ:指紋による科学的個人識別を世界で最初に提案した医師)


 探偵の世界で指紋鑑定が犯罪捜査に活用されるようになったのは、1900年代に入ってすぐの頃だった。その時代よりも遙かに科学レベルが劣る(「魔法」という別系統の技術があるため、必ずしもそうとは言い切れないかもしれないが)この世界において、指紋鑑定などという犯罪捜査技術は当然存在しないのだろう。今、アルファトラインは「指紋」という言葉が存在しないと言ったが、正確には違う。この世界(に住む人々)にも当然のように「指紋」はあるが、存在しないのは、〈それが人間ひとり一人全く異なるものであり、個人の特定識別を可能とする証拠になり得る〉という知識と、それを証明するための学問系統なのだ。

 探偵は気を取り直して立ち上がると、


「ま、まあ、フォールズも最初に指紋鑑定技術を警察に持ち込んだときは、まったく相手にされなかったそうだからな。今から俺が〈指紋鑑定の有用性〉を訴えたとしても、そのことがこの世界に知れ渡り、万人を納得させるには相当な時間が必要だろうし、そこまで出来るとも思えないからな。そこは考えるだけ無駄ってことか」


 指紋のことはすっぱりと諦めた探偵だったが、彼の前には、指紋よりも大きな壁が立ちはだかっているといえた。


「魔法が凶器……か」探偵は深いため息を吐いて、「そもそもだな、そんな危険な魔法が書いてある書物を、たったひとりの人間に管理させているのが間違いなんじゃないのか?」

「正直、こんなことが起きるとは考えてもいませんでしたもので。古代魔法書に書かれた文字を解読研究できる人間は限られているうえ、ブラストフは自分以外、誰にも本の中身を見せていませんでしたから。我々も今回の事件が起きて、今のように広がった状態の本を見て初めて、そこに〈死の接触〉の魔法呪文が書かれていたということを知ったという次第でして」

「そうか……。まあ、とにかく死体を調べてみよう」


 探偵は、伏臥したブラストフの死体のそばに屈み込んだ。彼の世界での死体検分ではあり得ないことだが、探偵は事切れたブラストフの体を素手で触り、持ち上げ、懐をまさぐり、体各所の状態を確かめていった。どうせ指紋が捜査の武器とはならない世界なのだ。この調子では、法医学という学問自体が存在しないはずだ。構うものか。その証拠に、アルファトラインも、探偵の世界で言う警察であるミラージュも、探偵の行動に何ひとつ注意を挟む素振りも見られない。探偵は服を脱がせて――死後硬直が発生しているため可能な限りだが――体も調べた(※死後硬直は死亡後二~三時間程度で現れ、十八~三十六時間程度経過すると今度は弛緩が始まる)。死体の前面に見られる死斑は、死亡した直後に俯せに倒れ、その姿勢をずっと保っていたことを裏付けている。口周りの匂いも嗅いだが、毒物が使われたことを思われるような異臭もしない。


「……確かに、一切の外傷はない。毒でもないようだ」


 死体を調べ終えて立ち上がった探偵は、次に室内を改めて見回した。事前に聞いていたとおり、調度と呼べるものは、机と倒れた椅子が一脚ずつと、作り付けの書棚だけ。机の上には数枚の紙が散らばっており、ペンとインク壺が置かれている。書棚には、数冊の――探偵の世界でA5程度の大きさに相当する――本が数冊並べられている。そして、被害者と同じように床に投げ出された魔法書。それらがこの部屋にある全てだった。


「どうですかな、異界人。何か分かりましたか?」

「分かるも何も……。ちょっと確認しておきたいんだが、本当に、この部屋に出入りした人間は、被害者の孫のリムロック、容疑者のウォーパス、昼飯を届けに来たウィリー、この三人しかいないと断言できるか?」

「それに間違いはないはずです。カウンターには常に何人かの司書が入っており、ここへ続く廊下の出入り口は自然と目に入ります。彼ら、彼女ら自身は皆信用できる人物ですので」

「いや、そうじゃなくて……例えば、例えばだぞ、魔法なんてふざけた――いや、凄いものが存在する世界だ。瞬間移動みたいな魔法もあって、それを使って、誰にも見られずにこの部屋に出入りする方法はあるんじゃないか?」

「鋭いですな、異界人。おっしゃるとおり、この世界には〈瞬間移動テレポーテーション〉の魔法というものが存在します」

「それみろ! だったら、その〈瞬間移動〉を使って、ここに出入りすることも可能だろ!」

「それは難しい、というより、まず不可能でしょう」

「どうして?」

「ひとつに、〈瞬間移動〉自体が、大変高度な部類に属する魔法なのです。それを使えるのは――」

「ウォーパス、ただひとり?」

「この町近辺に限っては、そう言い切ってよいでしょう」

「だが、範囲を広げれば、当然使い手は出てくる」

「それも間違いないでしょう。ですが、〈瞬間移動〉の魔法の場合、魔法の使い手というよりは、魔法の特性自体に問題が出てくるのです」

「どういうことだ?」

「〈瞬間移動〉というものは、移動先にかなりの制限が課せられるのです。〈瞬間移動〉の使用者は、まず、移動したい場所を明確に、視覚的にイメージすることが求められます」

「それは、いつもいる場所や、長時間過ごす場所にしか瞬間移動は出来ないってことか」

「そうです。さらに、〈到着場所〉を指定することが非常に困難なのです。どんなに優秀な魔法使いといえど必ず、狙った〈到着場所〉から数メートル程度の〈誤差〉が生じてしまいます」

「誤差? それは、イメージした場所からある程度離れた位置に到着してしまう、ということか?」

「そのとおりです。ですので、〈瞬間移動〉を行う魔法使いは、必ず広い草原や広場などを〈到着先〉に選ぶのです」

「どうして? 到着位置が数メートルずれるくらい、別に問題ないだろ?」

「そうはいきません。〈瞬間移動〉による到着場所を広い場所に決めているのは、到着位置がずれた――ほとんど必ずずれますが――場合でも、そこが何もない空間であることを保証するためなのですから」

「〈何もない空間〉って……も、もしかして?」

「はい。〈瞬間移動〉の到着位置に〈何か別の物体〉が存在していた場合、その物体と干渉する分だけ、移動者の体は失われてしまうのです」

「な、何だって?」

「腕や脚を失う程度で済めば良いほう。例えば、厚い壁や岩の中に〈瞬間移動〉してしまったならば……」


 探偵は、ごくりと唾を飲んで、


「た、確かに、そんなリスクを負ってまで、こんな狭い部屋に〈瞬間移動〉する馬鹿はいないよな……」

「ええ。この部屋程度の空間にピンポイントで〈瞬間移動〉が可能な魔法使いなど、過去現在どこを捜しても存在しないでしょう」

「よく分かった……」


 探偵はそう答えて、改めて室内を見回した。

 こうして現場に来てみても、馬車の中で聞いた事件の概要を、実際に目で見て確認しただけに過ぎなかったと探偵は思った。

 事件自体は極めて単純なものなのだ。ある種の密室(監視下に置かれた密室)で死体が発見され、そこに出入りしたのは、被害者を除いて三人だけ。最初に訪れたリムロックという名の衛兵は、被害者と数分だけ話をして部屋を出た。次に訪れた魔法使いの老人ウォーパスによると、被害者は椅子に座り机に頭を載せた状態で眠っており、彼もすぐに部屋を出た。最後に訪れたのは昼食を届けに来た酒場の使いのウィリー。彼が床に倒れて死体となったブラストフを発見、すぐに衛兵が駆けつけ、被害者の死亡を確認した。

 まったく外傷のない死体と、時間軸の状況、現場に残された〈死の魔法〉という〈手がかり〉を鑑みれば、犯人は間違いなく二番目に部屋を訪れたウォーパス以外には考えられないが。

 おまけに、彼には動機もある。ウォーパスの孫娘のエイシーは、一名しか採用されない騎士試験で二番手の成績に終わり、念願だった騎士への昇格を逃している。最優秀成績で騎士になることが決まったのは、被害者の孫であり、最初に部屋を訪れたリムロックだ。被害者が試験の審査団に接触していたという話があり、それは、孫へ便宜を図ってもらう賄賂を渡すためだった、という噂も流れているそうだが。

 これだけ材料が揃えば、もうウォーパスへの嫌疑は動かしがたいもののように思えるのだが……。

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