第6話
「今日は何を読んでいるのですか」
最初にこのカフェで出会ってから、幾許の時間が経過した。前回の来店とあまり日を置かずカフェに顔を見せた彼女に、長谷部は今日も話しかける。最初に会うまでほとんど会わなかったことが信じられないくらい、長谷部は彼女とこのカフェで顔を合わせていた。
あの日、彼女と初めてカフェで出会った日、長谷部が紅茶を彼女に運んで行くと、本の上の文字を追っていた彼女の瞳が長谷部を映した。途端、目を見開く。
「なんでここに」と言いたげな口は、然しその実何も言葉を告げずに、暫く視線をうろつかせた。そして、長谷部が持っていた紅茶に気がついたのか、長谷部の手元で視線を止める。
「紅茶です」
長谷部はやっと言葉を口にした。
口内が乾いているような気がしたが、気にしなかった。
彼女は再び長谷部に瞳を向ける。
長谷部は、机に紅茶を置く。
しばらく沈黙が流れた。
長谷部は迷っていた。話しかけるべきか、それとも何も言わずに去るべきか。話しかける勇気もなく、しかし何も言わずに去ることもできない。自然と彼女が口を開くのを待つ格好になる。そんな自分に、辟易した。
「ここの、店員さんだったんですね」
彼女がようやく口を開く。
「えぇ、偶然ですね」
長谷部も短く返す。
また、沈黙が落ちた。そわそわする体を押さえつけながら、長谷部は次に言うべきことを考えていた。彼女は何を考えているのだろう。何も表情を読み取れない。
「この前は、すみませんでした」
やっと自分から声をかけた長谷部に、彼女が少し驚いたような表情を見せる。
「怒らせるつもりはなかったんです。だけど、怒らせちゃったみたいだから」
長谷部が弁明のように続ける。
「こちらこそ、ごめんなさい。わかってます、心配してくれただけだって。だけど私、心配されるのが嫌いなんです。特に、男性から心配されるのは」
彼女は視線を手元に落とす。
少しトーンが下がった声色に、長谷部は何か理由があるのだろうと察した。しかし、深く聞きたい心を抑えつけて、もう一度「すみませんでした」と謝罪した。
「最近、このカフェで働き始めたんですか」
彼女が聞いてくる。
「いえ、もっと前から働いてたんですが、たまたま会う機会がなかったみたいで。常連さんなんですよね、えーっと……」
長谷部が言葉を濁らせ顔を見つめると、彼女は察したのか「山寺です」と告げた。
「山寺さん、ですか。俺は長谷部です」
「長谷部さん」
彼女は小さく頷きながら、長谷部の名前を繰り返す。
「山寺さんは常連だって、店長から聞きました」
「そうですね、もう彼此長い間、お世話になってます」
「そんなに長いんですか」
「ええ、もう店長とは十年ほどの付き合いになります」
長谷部は驚いた。
彼女は長谷部とそう年も変わらないだろう。それなのに、十年の付き合いなんて。長谷部は二十歳だ。十年前は、小学生になる。彼女は一体幾つなのだろう。いつ店長と知り合ったのか。店長と彼女はどういう関係なんだ。
様々な疑問が長谷部の脳内に押し寄せる。
「幼い頃からの知り合いなんですよ、ここの店長さんは」
彼女が微笑む。
長谷部はもう少し聞きたいことがあったが、出会ったばかりで不躾だろうと抑えて、「そうですか。それでは、ごゆっくり」と彼女に背を向けた。
カウンターに戻ってから再び彼女の方を見ると、彼女は机に置いていた本を読んでいた。集中している様子に、もう長谷部のことは気にもかけていないのだろうと肩を落としながら、ゆったりと本を読み進める彼女をその日は彼女が帰るまでずっと見ていた。
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