第5話

長谷部陽一が彼女と出会ったのは、友人同士の飲み会の場であった。

友人の友人のそのまた友人という関係で知り合った彼女は、はにかむように笑い、落ち着いた口調で友人を茶化していた。頼んでいたのは、カシスオレンジ。

コクリコクリと液体を嚥下する彼女が気になって、友人たちのバカ騒ぎに乗りながら、チラチラと目線を送っていた。


「よし! もう一軒行くぞっ!」

気持ちよく酔っ払い、ふざけ始めた友人の一人が、二次会の開始を宣言した。

すぐに周りの友人たちも声をあげ、長谷部も声を上げようとしたその時、場の喧騒から浮いて聞こえる静かな声が響いた。

「すみません、私、明日早いので」

「えー。桃子来ないの?」

「うん、ごめん。明日用事なんだ」

会話をしながら荷物をまとめ始める彼女を、長谷部は唖然と見つめていた。

彼女の友人が文句を言いながら引きとめようとしているが、彼女の意思は固いらしい。

彼女は財布からお金を取り出し友人に渡すと、すぐに財布をハンドバッグに片し、立ち上がった。

「それじゃあ、二次会楽しんでね」

背を向けて去ろうとしている彼女に長谷部は我に返り、後を追った。


「俺、送るよ。もう遅いし」

店を出た少し先で立ち止まっている彼女に声をかける。彼女は振り返って

「タクシーを使うので大丈夫です」

と笑顔で答えた。

「タクシー代出すよ」

「いいです。初対面の人に出してもらうのは申し訳ないので」

「でも、」

長谷部が困惑顔で言い淀むと、彼女は強い口調で

「女だからって、そこまでしてもらう謂れはないと思います」

と言い放った。


驚いて顔を見ると、彼女は眉間にしわを寄せていた。

「女だからって、」

全員に同じことをしているわけではない。そう続けようとして、長谷部は口を閉じた。これでは下心があると白状しているようなものである。

少し気まずくなって、「そんなつもりは、」と文尾を濁すと、彼女は大きくため息をついて、「それでは」と背を向けた。


ここでタクシーを取っていけばいいのに、彼がいる場所で待っているのがそんなに嫌なのだろうか。長谷部は更に肩を落とす。

惨敗だ。こんなに完膚なきまでに振られたのは、初めてだった。


「帰ろう」そう、酔いの醒めた頭で考えた。友人たちはまだ中にいるし、彼らに混じって次の店で二次会を始めるのは、気分的にちょっと無理だ。家に帰って、シャワーを浴びてすっきりしてしよう。寝る前にオーディオでお気に入りの音楽を聴いて、寝てしまおう。

そう考えて、下向きだった気分をなんとか少し持ち上げた。

駅に向けて重たい足を踏み出すと、先ほどまで耳に入ってこなかった周りの喧騒が一気に押し入ってきた。




長谷部が次に彼女を見たのは、バイト先のカフェだった。

担当の客のコーヒーを淹れている最中、来客を知らせるドアのベルが鳴って振り向いた先に、彼女はいた。


彼女は別の店員に案内されて、窓際の席へと向かう。

長谷部はコーヒーを淹れながら、彼女を案内して戻ってきた店員に話しかけた。

「担当、変わってくれないか? 」

唐突に声をかけられた店員は驚いて長谷部の顔を見つめたが、すぐにやけたような顔で了承する。

「なんだ? ああいうの、お前の好みか?」

「いや、そういうのじゃないけど」

長谷部が口籠ると、店員は更に顔をにやけさせ、「また詳しく話し聞かせろよ」と肩を叩いて奥に入っていった。


暫くして、そろそろオーダーを聞きに行こうかと長谷部が動き始めた時、奥の扉が開いて店長が出てきた。

「お疲れ様です」

一応挨拶をしながら、逸る心を落ち着けて彼女の席に向かおうとする長谷部を、店長が緩やかな声で止める。

「あの方の注文はもうわかっています。今、紅茶を入れるので、少し待っていなさい」

そう言いながら、店長は茶器の用意を始める。

長谷部は驚きながら、流れるような店長の手つきを見ていたが、ふと我にり店長に尋ねる。

「彼女、ここの常連なんですか?」

「ええ、もうずっと前から通ってくれてます」

「えっ......でも、俺、見たこと......」

長谷部が記憶を探りながら困惑気味に呟くと、

「そういえば、長谷部君がシフトの時に彼女が来たことはなかったかもしれませんね」

と、店長が返す。

「長谷部君は、彼女と知り合いですか?」

「知り合い、というほどではないのですが」

一度しか会ったことはないし、彼女の方は長谷部に良い感情を持っていないだろう。黙り込んだ長谷部に、店長は抽出途中のティーポットを見つめていた目を向けた。気まずくなった長谷部は、少し視線を落とす。


「そうですか」店長は呟き、抽出を終えた紅茶を茶漉しで漉しながらカップに注いでいく。側に用意していた砂糖をスプーンで数杯入れてかき回し、長谷部にカップを渡した。

「はい、彼女に」

そう言って、店長は再び奥へと戻っていく。

長谷部は店長の背を見つめながら、考えた。

店長はわざわざ、彼女に紅茶を淹れるためだけに表に出てきたのだろうか。常連だと言っていたけれど、彼女はいつからここに通っているのだろう。彼女と店長はどういう関係なのだろうか。

疑問が頭を埋め尽くしていくが、尋ねたところで店長は何一つ答えてくれないだろう。

長谷部はため息をついて、店長の淹れた紅茶が冷めないうちに、彼女へと運んだ。

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