第4話

「おはようございます。今日はお早いですね」

 朝、いつもの確認を済ませて、杉本はカウンターへと向かった。カウンターには朝の業務を始めている渉と、丁度今来たばかりの山寺さんの恋人がいた。

 山寺さんの恋人は、いつもは見ない杉本に挨拶をされて戸惑っているのか、カウンターへと歩いてきていた足を止め、その場で静止している。

「どちらさまですか」

 思っていたよりも年若い声が聞こえてくる。

「山寺さんの担当医の杉本です」

 杉本が答えると、彼は「なんで急に……」と眉をひそめながら杉本を伺った。不躾な視線に耐えながら、杉本は笑顔を保つ。

 暫くすると、彼は「あぁ」と声を漏らして、「カウンターから苦情がきましたか?」とカウンターの渉に目をやった。

 口端を軽く引き上げて笑う彼の言葉に、カウンターで作業をしていた渉が焦ったように顔を上げる。杉本は、すかさず口を開く。

「違いますよ。今回は、僕があなたとお話ししたいと思ったので」

 口を開きかけた渉が、口を噤んで杉本に顔を向けた。心なしか、捨てられた子犬のように見える。杉本は内心で軽く吹き出した。

「話? 何を話すんですか。彼女に会わせてくれるんですか?」

「それは、少なくとも今の時点では無理です」

「将来的には会えるんですか?」

 彼が身を乗り出して、杉本に詰め寄る。杉本は若干腰を引き気味に、言葉を返す。

「約束はできません」

 そう杉本告げると、彼は顔を歪め、落胆したように視線を床に落とした。横目でカウンターの渉を確認すると、眉を落とした表情で杉本と山寺さんの恋人の間で視線を彷徨わせている。

 山寺さんの恋人が、詰められた眉間を指で揉み、大きく息を吐き出す。長く、長く。そう何度かゆっくりと息を吐き出すと、眉間にやっていた手を下ろし、再び杉本に目を向けた。

「それでは、なんの話があるのですか」

 彼は落ち着いていた。追い返されても懲りずに恋人を訪ねる様子から、杉本は彼のことを激情的な性格だと推測していたのだが、そうではないようだ。噛み締められた唇に、少々のやるせなさは垣間見得るものの、彼の声色は静まっていた。

「本を彼女に買う約束をしたのですが、あなたに本の選定を頼みたいと思いまして」

 杉本がそう言うと、彼は軽く目を見張る。

「本、ですか」

「ええ。山寺さん、相当本がお好きなんでしょう?」

 杉本が聞くと、彼は少しの間目線を彷徨わせた後、確りとした目付きで杉本に目線を戻し、首肯した。

「そうですね。彼女は、無類の本好きです」

「ある作家さんの新刊の話をした時は、目を輝かせていましたよ」

「米澤穂信さんですか?」

「よくわかりましたね」

「彼女、彼の大ファンでしたから」

 彼の口端がゆるやかに上がっていく。杉本は彼に話してよかったと胸をなでおろした。

「新しい本をいくつか用意しようと思うのですが、どの本が良いか、一緒に考えてくれませんか?」

 その言葉に、彼は暫し逡巡した後、

「わかりました。彼女のためなら」

 と、好青年然とした笑みを浮かべた。杉本が見てきた中では初めての、快活とした笑みだった。杉本は心の内でそっと息を吐く。うまくいってよかった。

 杉本が笑みを返すと、彼は

「彼女に会うのも、まだ諦めていませんので」

 と悪戯げに、それでも真剣な声色で宣言する。

 杉本も一瞬目を瞠り、その後込み上げてくる笑いを抑ることなく表情を崩した。

「それは、彼女次第ですね」


 和やかな空気のまま、カウンターの渉も含めて、本の選定の予定を確認した。彼と相見えたばかりの、糸が張り詰めたような緊張感はもう無くなっている。

 最後に連絡先を交換する運びになり、杉本がふと口を開く。

「連絡先より先に、お名前、教えてもらえませんか?」

 山寺さんの恋人は僅かに目を見開いた後、笑顔で彼の名前を告げた。

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