第3話

 目の前の扉にノックをする。相変わらず返事はない。鍵が閉まっているわけではないので、杉本は気にせずドアを引いた。

「失礼します」

 山寺さんはベッドに座り、本を読んでいた。ベッド脇には、杉本が送った白のヒヤシンスが花瓶に挿して飾られていた。

 本の上の文字を追っていた目線が上に上がり、杉本の顔付近で止まる。暫く停滞した後、ふらっと目線が横に逸れた。

「今日は少しお話がしたくて来ました」

「......お話? 」

「はい。お時間よろしいですか? 」

 彼女は本をベッド脇の花瓶の元に置いて、杉本を見た。先程よりも遠慮なく顔を凝視する瞳に、杉本も視線を返した。膝に置かれた彼女の手に力が入る。

「緊張しないでください。ただ少し、お話がしたいだけですから」

 杉本は笑みを浮かべると、ベッド脇に置かれていた簡易椅子に腰をかけた。


「調子、どうですか? 」

「悪くないです」

「そうですか」

 山寺さんは、いつも「悪くないです」という。悪いとは言わず、かといって良いとも言わない。嘘をつけない性格なのだろう。嘘をつくことを自身に許していないタイプだと、杉本は思っていた。

「何かやりたいことはありますか? 」

「やりたいこと? 」

「はい。ずっと病室にいるのも、気が滅入るでしょう」

 山寺さんは、病室にずっといる。何をしているのかは知らないが、杉本が訪れる時はいつも読書をしているので、もしかしたらずっと本を読んでいるのかもしれない。


 杉本は「気が滅入るでしょう」と言ったが、実は山寺さんのような人は、この施設では珍しくない。人との接触に忌避感を感じる人も多く、一人を苦痛だと思わない人もいる。

 しかし、体をあまり動かさず、外界からの刺激をほとんど受けずに過ごしていると、人間というものは気分を落としてしまうものだ。だからこそ、杉本たち職員は、患者にあった形で、外の世界との接触を図る。

「例えば、その本とか」

 杉本は、ベッド脇に置かれた本を指差した。

「いつも本を読んでいますが、もうそろそろ読み終えてしまったのではないですか? 」

 山寺さんが、入居時に持ち込んだ本だった。

 この施設に入る際に持ち込める物には限りがある。ほとんどの患者は身辺整理も兼ねて、入居前に所有物を整理し、本当に残しておきたい物、数品だけを持ち込むが、患者によっては、ほとんど何も持たず来る人もいる。山寺さんが持ち込んだ物は本だけだった。

「新しい物が欲しいのであれば、手配もできますよ」

 杉本がそう伝えると、部屋に入ってきて初めて、山寺さんの顔に色が差した。山寺さんの顔色の変化に、杉本は少し驚きながら尋ねる。

「何か読みたい本はありますか? 」

「米澤穂信さんの新作が読みたいです! 」

 山寺さんが身を乗り出しながら答えるのに、杉本は一瞬固まってしまったが、少しして笑いが溢れてきた。クスクスと息を溢す杉本に山寺さんも我に返ったのか、頬を染めて「すみません」と俯いた。

「ここに入る前に新作が出ていることを知ったのですが、新しく読む物を遺しておくのもどうかと思って、買わなかったんです」

 山寺さんはそう言って、もう一度「すみません」と頭を下げた。

「いえ、大丈夫ですよ。少し驚いただけなので。こちらこそ、笑ってしまってすみません」

 杉本も謝る。

「でも、意外でしたね。そんなに本が好きなんですか? 」

「はい。小さい頃からずっと読んでて」

 山寺さんは小さく頷きながら答える。

「そうですか。それなら、手放すのは惜しかったんじゃないですか? 」

「そうなんです。どうしても読みたい物を持ってきたのですが、それでも捨ててしまうのは忍びなくて。でも渡す宛てもないし、もう必要もないのに………」

 山寺さんはそう言って顔を伏せた。杉本は、できるだけ声を和らげるよう努めながら、山寺さんに声をかける。

「この施設には共用の書庫があります。もし、山寺さんの本が必要ではなくなることがあれば、そちらに寄贈していただくことも可能ですよ」

 俯いてしまった彼女と目を合わせるために、少し小首をかしげながら言う。

「だから、読みたい本は、読んでしまって良いんです」

 米澤穂信さんの本、手配しておきますね。

 そう杉本が言うと、山寺さんはゆっくりと顔を上げて、「ありがとうございます」と笑んだ。杉本もその声を聞いて笑みを浮かべる。

「他にも欲しいものがあったら、リストにまとめておいてください。明日リストを受け取りに来ます。欲しいものを伝えてくれるのは、いつでも歓迎ですからね」

 その言葉に頷く山寺さんを見ながら、杉本は考えていた。

 遺される本の話からも死を思ってしまう彼女に、今、恋人の話を振るのは得策ではないかもしれない。だけれど、彼女の恋人が、彼女に渡したいものを代理で届けることくらいはできるのではないだろうか。恋人の彼も何もしないより気が楽だろうし、彼女にとっても、外の世界と細くとも繋がりがあったほうが、きっと好いだろう。

 杉本は椅子から立ち上がり、扉のほうへと足を向けた。

「では、また明日」

 部屋の扉に手をかけた杉本に、彼女は軽く会釈をして、ベッド脇に置いてあった本に再び手を伸ばす。彼女はこれからまた、本の世界に入っていくのだろう。恋人の彼は、彼女の好みの本を知っているのだろうか。杉本は毎日訪ねてくる彼の顔を思い浮かべる。彼はきっと明日も来るだろう。明日はどうやって話を始めようか。初めて話す彼のことを考えながら、杉本はカウンターへと内線をかけた。

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