一人目:彼女と恋人

第2話


 安楽死事前準備施設とは、5年前に合法となった安楽死を取り締まる機関のことだ。

 安楽死は履行する前に、いくつかの検査がある。一番大きなものは、安楽死を履行するに値する状況であるかどうか。厳重な審査を経て、安楽死の資格ありと認定された人々には、特別な事情ーーー治療不可能な難病による安楽死などーーーがない限り、一年間の準備期間が課される。その一年を経て、それでも死にたいと望む人に安楽死が履行される。

 安楽死事前準備施設とは、安楽死を望む人が最後に暮らすことになる施設。そこに勤める職員は、謂わば安楽死最後の砦だ。それ故に、安楽死事前準備施設のことを人々はこう呼ぶ。『最期の救済』と。


 そんな安楽死事前準備施設に勤める救済者、杉本信人は頭を悩ませていた。


「あの人また来てるよ」


 近くにある窓からは、1人の男性が見える。カウンターの職員と口論になっているようで、デスクを力強く叩いている。相当憤っているようだ。杉本が呼ばれるのも時間の問題だろう。杉本は本日何度目かの溜息を吐いた。

 男性は、杉本が担当している患者の恋人だ。彼は恋人である患者に会うために何度も施設に来ているのだが、恋人が拒絶しているため今まで一度も会えたことがない。

 いくら恋人といえども、患者の同意なしに会わせることは出来ないので、男性が施設に来る度に引き取ってもらっているのだが、それでも諦めずに何度も施設を訪ねてくる男性に、杉本は頭を悩ませていた。

 ポケットの内線がなる。窓下を確認すると、カウンターの職員が耳に電話を当てているのが見える。再び溜息をつきながら席を立ち、内線を取って歩き出す。今日は大変な日になりそうだ。



「あの人、また来てましたよ」

 カウンターの職員が言う。

 カウンターにはすでに男の姿はなく、先程までの一触即発な空気とは打って変わった長閑な昼の空気が漂っている。

「今日も帰してくれてありがとうな、渉」

「いえ、仕事ですから」

 カウンター職員、渉が軽く口端を歪めた。広げた手が横に付いてきそうな、アメリカンな笑い方である。

「とは言え、あの人ほぼ毎日来てますよ。熱心ですね」

 そう言いながら、渉は出入り口を見つめている。何か思うところでもあるのだろうか、一瞬眉をひそめたのが見て取れた。渉がこちらを振り向く。

「......会わせてあげられないのでしょうか? 」

「どうした。随分同情的だな」

 杉本は驚いた。通常、カウンターの職員である渉が施設の規則を軽視するような言動はしない。渉は特にそういった規則には真面目で、冷静にカウンターの対応をしていると記憶していた。

「毎日あれだけ熱心に口説かれていれば、女性じゃなくても落ちますよ」

 渉の口元が歪む。なるほど、あの男、相当熱烈な愛をぶつけていたらしい。カウンターの机を叩き、愛を熱弁する男を真正面で見るとは、一体どんな感じがするのだろう。若干、渉に憐憫を覚える。

「口論じゃなくて、口説き落とされていたのか」

「それはもう毎日、熱烈に」

「大変だな、色男」

 杉本は苦々しい気分になる。業務には冷徹な渉が絆されてしまうほどなのだ。何か事情があるのだろう。尤も、事情がない人などこの施設にはいないのだけど。

 杉本が考え込んでいると、再論の余地があると感じたのだろうか、渉がもう一度尋ねてくる。

「どうしても会わせてあげられませんか? 」

 杉本よりも背丈が低いから上目遣いで、捨てられた子犬のような目で頼まれると、さすがの杉本も決意が揺らぐ。

「ダメだ。彼女が会いたがっていない」

 それでも絞り出すように拒否をすると、渉は「そうですよね」と呟いて、カウンター机に目線を落とし、置いてあった資料を片し始めた。気不味いときの渉の癖だ。

 大方、渉もわかっていて聞いてきたのだろう。わかっていて、それでも尋ねずにはいられない。あの渉が。そのことがどういう意味を持つのか、渉は男性から何を聞いたのか、渉に尋ねてみたいが、守秘義務があるから彼も答えることはできないのだろう。

 自分で聞いてみるしかないだろうか。そう杉本が考えていると、

「どうして彼女は、そう頑なに会いたがらないんでしょうね。彼氏なんでしょう? 」渉が話しかけてきた。

「色々事情があるんだろう。恋人がいるのに、この施設に来るくらいなんだから」

「先生は、聞いたことありますか? 」

「理由をか? ......そういえばないな」

「聞いてみたらどうですか? 彼女についても何かわかるかもしれないし」

 確かにそうだ。彼の方から聞く前に、一旦彼女の方にも聞いてみてもいいかもしれない。

 杉本は首肯をしかけたが、寸での押し留めた。彼女は今朝、緊急になったばかりである。下手に刺激すると、状況が悪い方向に進みかねない。今ここで心を閉ざされてしまっては、せっかく開きかけていた扉が開けなくなってしまうかもしれない。時期と話の流れ、彼女の様子を見ながら、慎重に聞いていった方がいいだろう。

 そう結論付け、杉本は俯きかけていた顔を上げた。期待したような渉に少し心は痛むものの、「まぁ、タイミングがあったらな」と濁すことしか、今の杉本にはできなかった。

「じゃあ、もう仕事に戻るから」

「わかりました。もう半日頑張ってください」

「お前もな」

 軽い言葉を交わして、カウンターを後にする。

 とりあえず今から山寺さんの部屋を訪ねてみようか。

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