安らかに眠るまで

桜染

第1話

 朝、みんなが朝食を食べ始める前から杉本の仕事は始まる。


「杉本先生、おはようございます」

「おはようございます」

 早朝の病院。大半の患者さんがまだ夢を見ている時間。廊下で白の制服を纏った人々がすれ違い際に挨拶を交わしながら、今日の仕事の確認や引き継ぎをしている。

 杉本も軽く挨拶を交わしながら慌ただしい廊下を歩いていると、前方から慌てた顔をしながらナースの子が駆けてきた。

「102号室の人、緊急です」

「まじか、了解」

 ナースの子は杉本にカルテを渡して、慌ただしい廊下を早歩きで縫っていく。杉本の今日の一番最初の仕事は、緊急対応になった。

 去っていくナースの子が見えなくなってから、杉本は踵を返した。早足で病室へと向かいながら、102号室の患者のカルテを確認をする。


 山寺桃子、最近入ってきた新入り患者だ。未だに会話はぎこちないが、気性の優しい女性のようで、問題を起こすような人ではない。昨日も部屋の中で紅茶を淹れて、静かに読書をしていたはずだ。

 杉本は未だ薄いカルテを捲りながら考える。

「今日は何があったかな」

 入院してきたばかりの患者さんは緊急が入りやすいから、彼女もそうなのかもしれない。

 杉本はカルテを閉じ、早足で102号室へと向かった。




「おはようございます、山寺さん。お加減いかがですか? 」

 ドアを開けると、窓際の椅子に座る山寺さんの姿があった。朝も早いのにベッドの上に居らず、かと言って本を読んでいるわけでもなく、何もしないでただ窓の外を見つめている。窓の外には灰色の雲が浮かんでいて、未だに施設前の道路に車は見えない。

「いつも早いですね」

 笑みを意識しながら、窓際へ向かう。山寺さんは窓から目を離し、今度は杉本を目で追いながらぼんやりとしている。

「おはようございます」

「......おはようございます」

 彼女の顔を覗き込みながら挨拶をすると、山寺さんも小さく挨拶を返してきた。良い傾向だ。

「気分はどうですか」

 目線を合わせるために床に膝をついて尋ねると、彼女は一言、睫毛を伏せながら、「悪くないです」と答えた。

「そうですか」

 想定内の範囲内だ。杉本は太ももに置かれた山寺さんの手首をやんわりと掴んだ。彼女の肩がビクりと跳ねる。

「やっちゃいました? 」

 杉本が笑顔のまま、彼女に尋ねる。彼女は暫く目を泳がせた後、小さく頷いた。

「あー、そっか。刃物とかは置いてないはずなんだけどな。何でやったんですか? 」

「......歯で」

「歯か。防ぎようもないですね」

 いっそ抜いちゃいますか?

 変わらず笑う杉本を見て、彼女は気まずげに目線をそらした。

「怒らないんですか? 」

「怒りませんよ」

 杉本は彼女の腕を撫でながら答えた。彼女の腕はあちらこちらに鬱血した跡があり、幾つかは血を滲ませている。相当強く噛んだらしい。消毒が必要な傷もある。

 杉本は傷には触れないように気をつけながら、袖をまくり上げた。

「この傷はあなたの心の痛みです。心が痛いから、体を傷つける」

 目線を腕から彼女の目に合わせると、彼女の顔は歪んでいた。拳を開いたまま震えている手を、そっと握る。

「心の痛みは、あなたが生きたいと藻搔いている証拠です。怒りなんて湧きませんよ。大切な、あなたの気持ちですから」

 彼女の眉間に皺が寄る。唇をかみしめて、握っている手の震えが増す。潤んできた瞳の下の薄い皮膚は、少し黒ずんでいた。杉本は手を伸ばす。

「眠れなかったんですね」

 そっと目の下に触れると、ギリギリを保っていた少し上の水面が決壊して、目の下の指を濡らした。噛み締められた唇から、小さな嗚咽が聞こえる。

「泣いてください。溜め込まれるより、ずっといい」


 杉本はずっと彼女の手を取り続けた。

 彼女はこのまま泣き疲れて眠ってしまうだろう。杉本は眠ってしまった彼女をベッドに運んでから、ベッドサイドのテーブルに些細な贈り物をしようと決意した。初めて泣いてくれた記念と称して。そして通常業務に戻るのだ。


 これが、安楽死事前準備施設で働く杉本の日常だ。

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