汲めども尽きせぬ


 先日、思いがけず甘酒ジャンキーになってしまったことを書いたけれども、あれを送った途端、中毒症状がぴたりと止んでしまった。まあ、正味4kgの酒粕を呑み尽したのだから、ただ単に飽きがきてブームが去っただけとも考えられるのだが、わたしにはこのように、あることを文章にしたとたん、その事象が「成仏」してしまうことがちょいちょいある。書いた時点で何とはなしに、ソーダの泡が抜けるように沙汰やみになる。例えば、檀れいが金麦のCMに出ていても、もはやわたしは「檀れいや」とは言わなくなった。それから、CDがないないないという話も書いたけど、あれを書いて数日後、足かけ二年探し続けたソニー・ナイトのディスクはひょっこり出てきた。ストーン・テンプル・パイロッツのケースから。


 そんなわたしが語っても語ってもまだ何か出る、汲めども尽きせぬネタの泉、いや泉っつーか底なし沼がある。そう、それは泉州の生きる伝説、はー太郎・ザ・グレイト。

 伝説の人物もしかし寄る年波というやつなのだろうか。こないだの連休後輩のSちゃんちに集まった折にも「いい枯れ」というのとはまた違う、残りの人生を投げるような発言が目立ち、非常に歯痒く思っていたのである。


 昼三時から飲み始め、翌日が出張という家主Sちゃんは十一時目前で「もーあきませんわ、わたし。これにて失礼、あとはご自由に」と言うとはー太郎と私二人を残して就寝し(そんな予定の中で自宅にひとを泊めるSちゃんの男気にも驚くし、遠慮なく上がり込む自分らもどうかと)、ホステス不在の中我々はその後未明までまだしゃべっていたのだった。

「もーな、いろんなことがどうでもいいねん。別に気張って化粧もせんでええし、おしゃれもせんでええ。ママ友たちが、子どもの塾の先生がカッコいいとか、どこそこの店のお兄ちゃんがかわいいとか言うてるのもわからん。現実世界の異性に対して、ちょっとでもそういう気が起こるなんて、もうありえへんわ」

 はー太郎はSちゃんが出していってくれた生ハム巻きチーズをつまみながら言った。神話の登場人物が、そんなことを言っていいとでも思っているのか。

「投げるな! たしかに子どもの塾の先生云々はどうでもいい、キミはもっとでかいハコでやってきててんから、そんなスケールの落ちるところで活動する気にならへんのもよくわかる。けど、とりあえずは戦場に帰れ。それかもう、狩りを教える側に立ちなさい。ライザップ行って10kg痩せて元の姿に戻って、弟子取って講座とかやったらええねん」

 わたしは御前ならまだまだやれると伝説の人をどやしたが、当人は首を振るばかりである。

「いや、もうそんなに頑張れへん。つーかなんで昔あんなに頑張れたんか、もはや思い出せへん」


 ヒトが生涯で分泌するフェロモンは、聞くところによると、茶匙一杯分程度のものなのだという。過去にこのひとはそれを、一人で二升半くらい辺り一面びしゃ撒きに撒き散らかしていたわけで、このひとの通った後にはそれに中った男どもの無残な死骸がごろごろ転がっているような有様だったのである。わたしはそれをこの目で見た。あのとき頑張り過ぎたのか。中島敦は傑作「名人伝」で、弓の道をきわめて、ついには弓そのものが何なのか忘れ去ってしまうという達人中の達人の姿を描いたが、畢竟はー太郎もそういうことなのだろうか? しかしいくらなんでも早い。せめてあと十年は、神話の続きを聞かせてほしいのである。わたしは何も美魔女になれとか、そういうことを言っているのではない。ああいう往生際の悪い造り物の美などではなく、御前にはあるだろうが。ナチュラルボーンのうつくしさが。このままみすみす雨ざらしにするには、あまりにも惜しいのである。

 たとえ本人からそう聞いても、今はー太郎が、息子を自転車の後ろに乗っけてスーパーに買い物に行ってるなんて、わたしは実は信じていない。そんでもって「ごぉるあああ、後ろで立つなぁ!!」などと、息子に怒鳴り散らしているなんて、そんなのはわたしを笑かすためだけの単なる冗談だと思っている。第一自転車なんて、自分が後ろに乗る方ならともかく、我がらの力でペダルをこがなくてはいけない乗り物を、あのはー太郎が運転できるはずがない。はー太郎というのは、箸より重たいものは決して持たず、8cm以上のヒールを履いて、お迎えの自動車が家の前に来るまで、直射日光の当たるところには決して足を踏み出さない生き物だと、わたしは未だに本気で信じている。多分、このひとのアレに一番ひどく中っているのはわたしなのだと思う。

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