ここ一番てどこやねん


 昔から、わたしには手に入れたシールをため込む傾向が見られた。伏見の祖父母からもらったたくさんのシールが、今も引き出しにしまってある。中には手つかずのものもある。幼稚園のお友達が外国のお土産にくれたシールもある。美しい小鳥の意匠で、もらったとき兄と半分分けにしたから、台紙に、ミシン目を切った跡がある。

 それらは結局、わたしが大事にするあまり使わなかったものなのだ。ここ一番で使おう、と思って幾星霜。ここ一番がいったいどこなのかわからないまま三十年。


 わたしは小さいころから病的に筆マメで、大量の書簡をしたためてきた。封緘をする際、同じく大量のシールを使ってきたはずなのだが、「これはすげー大事なお便り」と自らが認めたものでなければ、ハレのシールはなかなか出さなかった。ケのシールというのは、たいがいが歯医者さんでもらったサンリオのキャラクターのシールで(つまりそれだけ頻繁に歯医者に行っていたのである)、あとはふりかけとか魚肉ソーセージとかのおまけについているやはりキャラクターもののシールだった。伏見からもらったシールも使うには使ったのだが、やはり宝度の低いもの(同じ柄のシートが複数枚あるとか)から使うようにしていた。それも残り少なになってくると惜しむ気持がわき起こり、広い台紙にぽつぽつと数片残してそのままおいてあったりする。

 同じように、ステキ便箋・メモ用紙にも、ちょびっとだけ残して結果的に保存しているのが散見される。「結果的に」というのは、はじめはちゃんと、ここ一番で使うつもりでいたからなのだが、歳月を経てフチが変色してしまい使用に耐えるものではなくなってしまったり、もうただ長年ウチにあった、というだけでその時間の累積自体が別な意味を持ち始め、さらにそれを入手した時の懐かしい思い出などと相俟って、とうてい「使えない」ものになってしまったのである。

 以前にも書いたけど、気に入っていた香水も、最後の数滴をここ一番に取っておいて、結局は蒸発させてしまったことがある。廃盤になったのか、探せども探せどもその「コケット」は手に入らないまま二十年経つ。そんなことなら、いつでも使えばよかったのだ。正味の話。

 とにかく、ここ一番がわからない。ここ一番て実際どこやねん、ということである。

 こんにちも、わたしはひとつ「ここ一番待ち」の物件を抱えていて、何かと言うとクリスチャン・ディオールのアイシャドウなのだけれども、それは義母からの放出品で、自力で手に入れたものではない。ありがたく使わせてもらっていたが、そろそろ底が見えてきて、別れの気配が漂ってくるなりわたしは使用を中止、ここ一番に備えて温存する方針を固めた。そんなわけで最近はもうずっと、元の通りの、どこにでもあるコクミンで買える庶民のアイシャドウを使っている。例によって、ここ一番が訪れないのである。つーかオマエ、大人になってんやから化粧品くらいええのん買え、というだけの話なのだが、残念ながらわたしにはそうした男気が一切ない。百貨店一階のカウンターには、恐ろしくて座れない。


 いや、ここ一番だって、ちゃんと訪れてんのかもしれないけれども、ていうかきっと訪れているのに違いないのだけれども、ここ一番のハードルをやみくもに上げているため(なんならもう、ここ一番の影が見えるやその場で諸手でさらにバーを上に上げるような)、その訪れも全てなかったことになっている。ここ一番を直視できないことも、男気の欠如の一形態である。端的に言うと、しみったれだということだ。うわあ、恥ずかしい! 書いていて、事の重大さに気が付いた。明日から、毎日が勝負のつもりでディオール使うわ。そう、だいたいハレもケもなく毎日ちゃんとするというのが、本来あるべき姿なのだ。と言っておいてきっと自分は使えないであろうところが、しみったれの本領であることを予見しながら、でも言う。明日から使う。

 

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