電気の紐

 たいてい日に一度は、暗闇のなかで、電燈の紐を探してうろうろする。壁埋め込みのスイッチ式ではない、古い家の哀しさである。昔嘉門達夫が「ああ小市民」とかなんとかいう曲でまさにそういう情景を歌っていた覚えがある。片手がふさがっていて、もう一方の手だけで宙を探ることもあるし、自由な両手をぶんぶん振りまわすこともある。自分の家なのに、これが上手くいかない。いつまでたっても位置感がわからない。狙い定めた所に決まって紐はない。たまさかに一発で掴んだ日などは逆にびっくりする。すげえ! 捕った! とか言って。

 うちに居る猫は、その様子をどう思っているのだろうか。多分、あいつアホやな、とか思っているのだろう。猫には見えているのだから、そこにあるがな、紐、ホレ、もうちっと右や右、とか、思っているのではないか。あるいは、人間は暗闇では物が見えない、ということが猫には認知されていず、それゆえに、わたしが何かホモルーデンス特有の意味ある行為(電燈を点ける前には必ず関西電力に感謝の踊りを捧げる、とか)に及んでいるのだとでも、思っているかもしれない。一度機会があれば訊いてみたい。

 このように人間の営みは日々滑稽である。

 滑稽といえば、翻訳家の岸本佐知子さんが、「珍道具」という題でエッセイを書いている(『何らかの事情』筑摩書房刊)。曰く、傘という道具は滑稽なものなのではないか。雨には濡れたくない、けど雨宿りしていては好きな所へ行けない。そうだ、「棒の先に屋根的なものをつけ、雨宿りをポータブル化」すればいいのだ、という誰かの思いつきで傘が生まれた。しかしその工夫は「どこかいじましくて滑稽だ」。

 岸本さんは他にも、扇風機、掃除機、エスカレーター、車などを珍道具として挙げている。僭越ながらわたしも自動車については、かねがね、おかしいよなあ、と思っていた。

 中学三年生の時、学校の帰り道、目の前を横切ってゆくセダンを何とはなしに見送っていたら、急にその車が透明になってしまった。中の人は座った姿勢である。座ったままの人がずううーっと移動していく。ハンドルを握る運転手の、横から見た姿を棒人間図に簡略化して表現すると、「考」という字の「おいかんむり」を外した、あるいは「与」の字の長い横線(四画目)をなくした、そのてっぺんのところにOを置いた形。そんな姿勢の人が、そのままの形で、時速何十キロとかいうすごい速さで、空間を移動してゆく。考えてみれば、ものすごく変な状態なんじゃないか。ヒトをはじめ動物が移動しなければならないとしたら、足なり手なりを動かしててくてく行く、というのが本来の姿だったのであって、「≒与」の形のまま猛スピードで移動、なんてどうかしている。

 わたしは笑った。吹き上がる間欠泉のように、突如笑いが止まらなくなった。箸が転んでも笑う年頃とはいえまあ異常であるが、それでも、すっげえすっげえヘン!! と思ったのだ。わたしはこの瞬間のことをよく覚えている。セダンの色が灰色混じりの水色だったことや、一緒に居合わせたミコちゃんがドン引きしていたことを、ありありと思い出せる。

 それから数年後、わたしは免許を取得し、今日では車を運転しない日など滅多にないが、ハンドルを握りながらときどきふと、ああ、じぶんはいま≒与なのだ、と思って独りへらへら笑うことがある。そしてそれをこうしてパソコンでぽちぽち打ち込んで、友人諸兄に送りつけ、知らねーよ。と思われることが滑稽のトドメだろう。滑稽というかもはや阿呆。

 うちの猫はそんなわたしのことをどう思っているのだろうか。

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