ほんとは、頼むのも頼まれるのもいやだ


 今朝、寝坊をした。娘たちを送り出さなければならない十分前に奇跡的に起きた。敗因はわたしの目覚ましのかけ間違えである。娘たちもオニの頑張りで、その十分間でいつもの量の半分ながらパンを食べ、着替え、歯を磨き、よっしゃ、でっぱつ、と事なきを得たのであったが、上の子は「もう!! お母さんのせいで!」とずっと怒っていた。そんなんやったら自分で目覚まし掛けて起きい、お母さんは三年生の頃にはもうおんちゃん(兄)と目覚ましして勝手に起きてた! とわたしも言い返し、しばし薄汚い責任のなすり合いをした。

 他人の用を引き受けた上で失策するというのは非常に厭なものである。オニのように厭。今日の場合、娘は他人というか、わたしとは別の個人ではあってもいちおう子であるので、未成年だし、わたしが責任を持たなければいけないと言われればそうなのかもしれないが、そんなことまで……と思ってしまうのはわたしがコドモだからか。クドカンが『俺だってコドモだ!』という本を書いているらしく、わたしは読んだことはないが、題名を見ただけでオニ共感してしまう。むしろ先に起きてお母さんを起こしてくれ。

 他人からの頼まれごとは、正直なところ、あまり引き受けたくない。わたしは自分に対する信用が圧倒的になく、ワレの世話すらまともにしおおせないのに、他人様の要望にまで応えられる道理がない。出来ない自信にあふれているのだ。「何か頼まれる→それをトチる→怒られる→謝る」というのも当然厭だが、「何か頼まれる→それをトチる→わたし謝る→向こうも謝る(ごめんね~、そんなこと頼んだこっちもあかんかったわ~、等)」というパターンも同じように厭だ。どっちにしてもオニのように申し訳なく、またなけなしの自尊心を損なう結果になる。

 自分が出来ない人間は他人にも多くを求めない。少なくとも、わたしは求めない。頼みごとは、恐る恐るする。果たされなかった場合の反応も、先ほど述べた二パターンのうちの後者である。したい頼みごとがないわけではない。でも、あまりしないようにしている。自分の厭なことは他人様にもしない、ということである。その代わり、自分の厭でないことはそれが厭な他人様にもバンバンしていると思われ(このメール配信とかもそうかと)、結局のところはやっぱりジコチューなのであって、時々ふと「すみません」と誰ともなしに謝りたくなる。

 今一番頼みたいことは、東京の港区に住んでいる友達のTちゃんに、今度こっちに帰って来るときに、下北沢のビレバンだけで販売されているという岡崎体育の生産限定CDをちょっと買ってきてもらえないか、ということなのだが、わたしは東京の地理に全く不案内で、ひょっとするとこの依頼は、同じOSAKAプリフェクチャーに住んでいるという理由だけで、岸和田や貝塚あたりの子に、ちょっとひらかたパークまで行って岡田君の銅像の写真撮って来てや、と言うオニ面倒臭い「どこが“ちょっと”やねん」な頼みごとと同じなのではないかという懸念があるため、胸にしまってある。


 (全くの余談)

 朝、娘たちに「オニの頑張りでまさかのギリセーフってこともありうる」と励ました勢いで、今日は文中「オニ」を多用してみた。「オニのように」と言って「非常に」「大変」「ものすごい」などの意味を表すのはずっと関西のスラングなのだと思っていたのだが、ネットで調べてみると、とくに関西限定の俗語というわけではなさそうで、「若者言葉」なのだと出てきた。でも、わたしの見たそのページによると80年代末ごろから使われだしたと書いてあって、そんじゃあもう三十年も経つことなのだし、使い始めたハシリの人々もええ年のオッサンオバハンになってるわけで、「若者言葉」とはもはや言えないのではないか。

 下の娘には、最初、通じなかったが、家を出る頃には「おかあさん、オニの頑張りで間に合ったなあ」と笑顔だった。従って二女には今日が、このスラングとの出会いの日である。別にめでたくもないが、多分わたしは忘れないだろう。

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