疑いの目
山の中で暮している。山は寒い。今年は九月の朔日をもってフリースの登場となった。フリース。そう、ユニクロで毎年ものすごい色数の物が売っているアレ。 アレのことだ。
我が家周辺には山林と田圃と山林しかなく、夜になると大変に冷える。したがってフリースの稼働期間は信じられないほど長く、一年間のうち使用されないのはなんと六、七、八月のせいぜい七十日程度なのである。もう、わたしはフリースを片付けることすらしない。六月中旬、一度洗濯したものを、そのへんの衣装ラックにそのまま掛けておくのだ。決して、畳んで収納ケース入り、などということにはならない。どうせすぐに要るのである。
冬がくれば、ここの日中の気温は平地に比べて平気で五度ばかりも低くなり、日が暮れれば路面は凍結し、洗濯物を外に干そうものなら数時間でパリパリ(ぶつかると痛い)、当然のように窓は開かない。凍ってるから。十一月の末までにスタッドレスタイヤに履き替えなければ、自分が困ることになる。
それでも夏のクソ暑い時期は、街より多少涼しかろうともやはりクソ暑いことに変わりはなく(摂氏三十度を越してしまえばひとはどうしたって「暑い」「汗がすごい」「毛穴が開く」としか言わなくなる)、これから秋がきて冬になる、などということが全く信じられないものだ。はあ? 寒くなる? 嘘つけ、という気分になる。ハンガーラックにあるフリースをちらっと見ただけで、大きな不快感を覚える。あっつ。見ただけで汗、倍なるわ。冬扇夏炉と言って無用のものを指すが、無用というか何というか、そこにあるのはただひたすらに疑いの気持ちである。こんなもん、またホンマに要るようになるんやろうか?
わたしはもとより頭の出来がもうひとつで、実際のことを目の当たりにするまでシュミレーションというものが利かない、という重篤な欠陥があり、ほんとに寒くならなければ納得ができないらしいのである。そういえば小学二年生になるまで左右の区別もつかなかった。「お箸を持つ方が右、お茶碗を持つ方が左」と教えられたところで、御飯の時間に実地に持ってみなければ、ソラでやってみてもなんだか箸だって茶碗だってどっちの手でも持てるような気がして、結局わからなかったのだ。わたしが左右の別をつけられるようになったのは、右手首にほくろを得てからである。そのほくろは、突然発生した。ある日、ふと手を見ると、出来ていた。これがある方が右、とわたしはその日を境に真人間サイドに立てるようになったのである。いまだに、とっさに左右が分からないとき、わたしは無意識のうちにほくろの位置を確認している。
とりあえずそうして左右が分かる社会人にはまあなったが、やはり「実地にやってみるまでシュミレーションできない」という不具合自体が直ったわけではなく、先だっても、右利きの人間ならば、あたり鉢は逆時計回りにすりこぎを動かした方が力が入りやすい、とお茶の御師さんから伺った際、普段自分がどうしていたかを考えるに全く以て不明で、ああ、わたしはちぃともかしこくなっていない、と思ったものだ。
土用の頃、うーん、もうこんなの捨ててもいいんじゃない……? という目で見てしまう毛糸のひざ掛けや裏起毛のジャージ。フェイクファーのスリッパ。耳あて。使い残しのカイロ。しかしこれらの物品がものをいう時期はすぐそこだ。けっして早まらないことを、自分に対して求めたい。疑うだけなら好きなだけ疑っていい。ただ行動してはならない。自戒の念を込めて書く「暑さ寒さも彼岸まで」。時々前倒しもあり。
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