手術で治るんだったらば


 詭弁と言われればそれまでかもしれん、しかしながらこれは真実である。



「既知の誤りであれば阻止も出来るが未知の誤りとなると誤るまで誤りではない」


 佐藤哲也著『沢蟹まけると意志の力』からの一節である。なんでそんなことしてん! といきりたっても、だってそれでいいと思ったんやもの、と返されればひとはもう受け入れざるを得ない。まあ、それでもひとはいきりたつのだろうが。そして怒られた方は謝るしかないのであるが。


 この一文を噛みしめて思うのは自分の物忘れのことで、そらもうわたしときたらいろんなことを忘れ、しくじり、各方面から叱責されてきた。自分はかなり物忘れをする、ということを常に念頭に置き、気をつけなくては、と自分を戒めていてもやはり忘れ、しくじり、各方面から叱責されきた。枝雀師匠の一生懸命のおしゃべりが脳内にこだまする。


「わいはどうしてこうワスレなんやろうなあ。死んだおばんも言うとったわ、『オマエももう少し落ち着きさえすりゃあ、普通の人間じゃ』」



 以前、長女の幼稚園の遠足の際、わたしは物忘れというか、幼稚園からのお便りを勘違いして読み、娘に規定の服装をさせなかったかどで配偶者から面罵されるということがあった。わたしが阿呆であることは認める。全面的に認める。ただ阿呆は叱ったところで治らないのだ。一番治したいと願っているのはこのわたしである。ロボトミーで絶対物忘れ及び勘違いをしない頭になるならばぜひ受けたいと申し込む。治ればこんなふうに怒られることもなくなろう。忘れ物したいヤツはいないしそれによって怒られたいヤツなどさらにない。「なぜ気づかない」と言われたが、言い訳でも開き直りでもなく、気づかないから勘違いなのである。勘違いに気づけばその時点で勘違いは解消されてそれは勘違いではなくなり、ひとは誤らない。わたしは「当日の服装」の欄を指差し確認までして二度読んだがそもそも思い込みをしているので自分の間違いに気が付かなかったのである。ともかくも、わたしは近年稀にみるきっついお叱りを受けながら、そのときひたすら冒頭に紹介した沢蟹まけるの一節のことを思い出していた。この、現在わたしが問責されているこの咎も、今よりまさに経験という層に組み込まれ、向後の誤りを減らすための糧となるのであろうか、しかし未知の勘違いとわたしは闘えるのか、と。だいたい自分の世話も出来ていないのに子供の世話をしているなんていうのは、する方にもされる方にも本当に理不尽なはなしで、わたしは時々途方に暮れる。


 ロボトミーついでに今まで読んできた本のことなどをこうして様々に想起して、かかる責任転嫁的泣き言をくどくど陳べたくなる神経もいっしょに切除してほしいと、せちに願っているんだけれども、そうねえ、百万円でどうですか。

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