Aテレビに遺恨あり ――伏せ字で進行する自主裏街コン出品作――



 十年以上前のこと、大学時代にお世話になったE教授がO市立の文化施設で講演をされるというので、泉州のリヴィング・レジェンド、はー太郎・ザ・グレイト永世モテ聖、わたし、他数名の同窓生で連れ立って、それを聴きに行った。


 E教授の門下生であったはー太郎と違って、わたしは同じ学科の別のゼミに所属していた学生だったが、偶然、E先生とうちの祖母・ヨシ子提督閣下が同じX県出身だということがわかって以来、先生はご自分のゼミコンや個人的な酒席にわたしを呼んで下さるようになった。あるとき久しぶりに会った閣下の里方のはとこにこの話をすると、


「おれらは同朋意識が強いけんね、ちょっとでも縁あると思うたら、みんな“身内”やけんね」


と頷いていた。そういえば昔、大東亜戦争末期に乗った引揚船が撃沈され、閣下が馬租島という島に流れ着いたとき、島に駐屯していた郷里の兵隊さんが、毎日自分のX県部隊からちょっとした物資を持って来て分けてくれた、という話を閣下から四百回くらい聞かされた。なるほど、そういう土地柄なのかもしれない。


 先生の講演には、あるテレビ局が取材に来ていた。かりにAテレビとする。Aテレビはその日、学生時代と同様E先生の講演を聴いているふりをしながら実際のところは開始十五分後からうつむいて半眼になってうつらうつらしていたはー太郎の、まだちゃんと起きていた時間帯の姿を大写しで撮っていて、その映像を夕方と夜中と翌朝の地方版ニュースで都合三回流したらしいが、真横の席に座っていたわたしは壱ミリもフレームインしていなかったと、番組を見た複数の人物から後日情報を得た。


「畜生、Aテレビめ! わたしはずっと起きてたのに!」


 そして時は流れて今年の春、Aテレビ取材班に、わたしはまたしても遭遇した。P市で開催されたある野外イベントに、子ども三人を連れて出掛けた日のことである。Aテレビが、その様子を撮りに来たのだった。でかいカメラを抱えたカメラマンと音声さん、ノートか何かを手にしている男性の三人組が、各々手にしたフランクフルトをあらかた食べ終わったわたしたち母子の方に近付いて来るではないか。すわ取材か撮影か、Aテレビよ、今度こそ悔い改めてわたしとわたしの血を引くこの子らを電波に乗せる気になったのか。


「なにー、おかあさん、あれテレビー?」


「うつるのー? ねえ、うつるのー? うつりたいー」


 長女と次女がわたしの袖を引く。長男だけは、何やらふんふん言いながら足下の石ころをいじくり回し、そちらの方は意に介していない。


 と、Aテレビ取材班は、我々の真横に座って唐揚げをいざ食わんとしていた親子連れに、ちょっと撮らせてもらっていいですかあ、などと、交渉を始めたのであった。


 嗚呼、我々のデオキシリボ核酸には、「Aテレビから無視される」という一文がパイロットの極細ペン先の字で書き込まれているに違いない。螺旋状に、ぐるぐる。

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