(附記2)わたしは貝になりたい
ああ、病気が治ったらなあー、と思う。何の病気? 「自分の心境を吐露したいしたいしたい病」に決まっている。あとのところは頗る健康だ。血圧もコレステロール値も全く正常で、視力もどこかの部族のごとく裸眼で1.5以上あるし、健診では毎年A連発である。中学生の頃の通知表のようだ(阿呆との付き合いを嫌うAは高校以降わたしの元をあっさり去って行った)。
それはさておき、前にも書いたが実のところわたしは貝になりたいのである。先週、「御厨塚行進曲」と題した拙文で、あまりにも意味のあることを書いてしまったので、今週はそれを猛省し、今まで書いてきた中でも一二を争う無意味なエッセイをお送りした。膝からくずおれんばかりの無意味の骨頂だと、自負するところのものである。
昔はああいう、憤りや疑問を種にして多少なりとも主張のある文章を多く書いていた。尾崎豊か。いや実際、そうだったのだろう。ユタカだったんだと思う。若いし元気だしバカだし。別に今だってバカなままなのだが、年とともに趣味は変わった。若い頃はとにかく肉がよかったけど今は魚の方がいいねー、というような心境に似ていなくもない。しかしながら当時から最終的な望みとしてあったのは、貝になることなのである。思ったことを吐き散らすような因業なことをせず、静かに生きて静かに死ぬ。
ただ、何も語らない、という態度もまた何かを語っている。いうなれば「無言の言」ととられかねず、ならばそこまでじゃなくていい、完全二枚貝じゃなくていい、人間関係に支障をきたすことのないよう最低限の時候の挨拶くらいはする、そこをぎりぎりのラインと設定することにしよう。したがって昨日食った牡蠣フライが大変美味しかった、という自我丸出しの所感はアウトだが、お暑おすなあ、程度のことは言えばいい。そういう感じで。
東海林さだおさんの『ヘンな事ばかり考える男 ヘンな事は考えない女』はわたしが棺桶に入れて欲しいリストの筆頭に挙げている本であるが、その冒頭に収録された「レッツ・トライ・ザゼン」において東海林さんは、
「仏教でいう悟り、解脱というのは言語からの脱却のことではないのか」
と書いておられる。人間も空を飛ぶ鳥のように、外界のすべてを「ああしたもの」という一個だけの言語で認識できるようになったときが、無念無想、すなわち悟りなのではないか、と。
また他方には、「天下第一の弓の名人になろうと志を立てた」紀昌という男の短い物語が、中島敦にある。紀昌は師について弓の技を究め、さらに仙境霍山に至って百歳をも超える老名人に教えを請い、九年の後に山を降りてくるが、そのあとは決して弓を持たないばかりか、弓を見せてもそれが何の道具か忘れ果ててしまっていた、という非常に味わい深い小説である。
わたしは、この二つの文章には底の方でつながる一つのテーマがあると思っている。何事も行きつくところまで行ってしまうと無になる、つまりどーでもよくなる、ってことじゃないのか。しかも、捨て鉢などうでもよさなのではなく、積極的な、素敵などうでもよさ。
しかしわたしが求めているのは悟りなのか? 名人の向こう側なのか? ハナシがおおごとになってきた。いえ、あの、そこまでのことやないんです。ただ、あんまりいろいろ言うのもなあ、下手の横好きの分際で、っていう。ていう、ね。
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