つつがなしや友垣
前にもたしか書いたけど、中一の時に所属していた部活で「はみご」にされてから女の子同士の絡みがすっかり嫌になってしまって、わたしは一年持たずに帰宅部に移籍した。はみごにされること自体は大雨とか落石のような天災、あるいは確たる根拠なく始まる持ち回りのような面もあって(まあわたしに限って言えば「もっさいくせに態度がでかい」という理由でシメられたのだと思うけど)、言いだしっぺたちが飽きるまで、ちょっと大人しくしていればやがてヨソへ去っていくという性格のものだと頭では知っていたが、わたしは我慢が出来なかったのだ。
そう、はみご扱いはあくまでも部活の中だけのことだったし、彼女らとも退部後は普通にしゃべるようになったし(つまり彼女たちの中で、はみご処置の解除が行われたわけである)、もちろん他の女の子たちとの付き合いだって愛想よく出来たけど、以後は卒業するまで一人登校の一人弁当だった。あ、「はみご」というのはいじめの一種というか、初期段階というか、仲間外れのことを指す、多分関西方言でしかも年少者語である。十八歳以上の人間が使っているところはあまり聞かない。わたしも今久々に言って懐かしい。
だからそれで寂しいとか悲しいとか死にたいとか、そこまで思い煩うこともなかった。むしろ「あいつらのようなスカタンと同じ高校に行ってたまるか。くだらん」という負のモチベーションだけがとろ火で燃え続ける結果になり、着々と受験準備を積み重ねたわたしは、彼女らが地元の偏差値生駒山な高校に自転車で通うのを尻目に、となりまちの偏差値キリマンジャロ校まで電車で行くことになった。根性わっるー。そらぁハブられるわ。性根が暗すぎる。
でも後々考えれば、あー、わたしにも友達がいたらなあ、という微かな詠嘆だけは常にどこかにあったようで、高校に上がって神様がわたしにOを与えたもうたときには「わたし、友達できた!! すげーー!! ともだち出来た!!」と嬉しくて嬉しくて、ブラマヨの吉田の言葉を借りればまさにチルバスな心持ちだったのだ。しかも、大学に行くとさらに友達は増えた。生きる伝説のはー太郎も、栗おこわのAちゃんも、みんな大学で出会った。
諏訪から関西にやってきた多田もその一人で、例によって美人だった。宝生舞に似てる。多田とも、実にいろんな話をした。小柄な多田は一浪だったから実は一コ上で、普段は全く意識しなかったけれども、ふとした時にお姉さんの頼もしさを感じた。それはまあ年齢だけの問題ではなくて、多田が三人きょうだいの一番上、というようなことも関係あったのだろう。三回生の冬、学科内合同コンパで多田と一緒に酔っ払って近世文学のI教授を呼び捨てにしていじり倒し、週明けに、同回生で唯一のI教授の門下生だったさえちゃんに付き添われて、教授の研究室に詫びを入れに行ったことも今ではいい思い出である。(商売屋の娘でしっかり者のさえちゃんは、鶴屋吉信の菓子折りまで準備してきてくれた。そういえばあのお菓子代ってどうしたんやろ……払った記憶がないんですが。)
そのコンパの終了後、下宿に帰ろうと思ったら鍵がなかった。「ちょ待って、ほんまシャレならん」とわあわあ騒いでいたら、多田は多田で「あたしも寮のキー、無い……」と青ざめているではないか。とにかく一緒に探そう、多田のはカードキーだから踏まれて割れてとかだったら余計大変だと、会場だった飲み屋の床に這いつくばってあちこち探し回ったけれども見つからなかった。店の周辺もうろうろしたが、うわあもうすぐ日付が変わるぞってなった段階で、とりあえず今日はもう諦める、隣の子か誰かに泊めてもらうから大丈夫と言って、多田は寮に帰ることにした。そうか、ほなわたしも誰かに泊めてもらうかなんかする、と鞄の内側の仕切りポケットからケータイを出そうとしたら、わたしの鍵はあっさりそこから出てきた。あまりにへべれけだったので、巨大なマイケル・ジャクソンのキーホルダーが付いているのというのに、見つけられなかったのだ。鞄の中も酔っ払いにとっては完全ブラックホールである。そしたら多田は、
「遠藤ってさー、嘘までついて付き合ってくれて、ほんといいやつだよね」
とわたしの手を握った。ちゃうちゃうちゃうちゃうそんなんちゃう、とわたしは鈴木雅之ばりに否定(なんのことか分かんない人はyoutubeへ行け)、その場で誤解を解こうとしたのだが、多田は、いいよ、わかってるからいい、とぶんぶん手を振って、階段の非常灯が輝く学生寮に戻っていった。
去年の秋に、多田は男の子を生んだ。初めての子だ。知らせを聞いて嬉しくて、早速わたしはうちの息子のおさがりを回した先、やっぱり同じ学科の後輩だったSちゃんに連絡して、多田んちに赤ちゃんが生まれたから、うちのおふるがまだそっちにあれば祝いかたがた信州に送りたいねんけど、と聞いてみた。Sちゃんも、わあ多田さんよかったですねえ! と快く、シューちゃん(Sちゃんの息子)の友達のおさがりまでかき集めて上乗せしてくれた。しかもうちのおふるの中には元々はー太郎・ザ・グレイトのところから回ってきたのまであって、すごいよなー、ウチら助け合ってるよなー同窓生! と感動しきりだったのだけど、年が明けると長野からお礼だといってわたしの家にリンゴが届いた。わたしとSちゃんとはー太郎とは、だいたい月一くらいのペースで、声が枯れるまでしゃべりまくる寄り合いを催しており(多分そのうち誰かが咽頭ポリープで入院するはず)、ちょうどその週末に会うことになっていたので、多田にはすぐにみんなで分けるから! と礼状を書いた。
ところがその約束がシューちゃんの不調、予備日もはー太郎の流感やなんかで流れに流れて、その間にリンゴはどんどん鮮度を失ってゆき、やむなくうちだけで頂いているうちに、とうとう最後の一個になってしまった。貰ってから約ひと月が経過していた。ジップロックに入れて冷蔵庫で厳重に保管していたが、ほんま次いつ会えるんやろう、てゆーかこのリンゴ、もはや本来のおいしさではなくなってるのかもしれない、なんて手に取って見つめているといてもたってもいられず、思いついてスライスして、砂糖と一緒に鍋に入れて煮リンゴにした。これでもう一週間か十日は大丈夫やろ。
不意に、小さい頃読んだ絵本の中に、『ぞうくんのおみまい』というのがあったのを思い出した。ぞうくんが、離れた町に住むおばあさんのお見舞いに、かごいっぱいのリンゴを提げて行く話だった。ぞうくんのリンゴは、道中のさまざまなアクシデントによって一つ減り二つ減り、おばあさんの家にたどり着いたときにはたったの一つになってしまっていたのだけれど、ナイトキャップをかぶったぞうくんのおばあさんは、とても喜んでぞうくんのことを褒め、おしまい、になった。多分。いや、ネットで調べれば著者や版元も一秒で分かるのだろうし、ひょっとしたら現物も手に入るのだろうが、例によってわたしは調べない。ネットに頼りたくない、とかそんなことに拘ってのことではない。曇りないぴかぴかの事実や情報よりも、曖昧模糊とした記憶の方がずっと値打ちの高いものであるということがある。
そうこうしていたらやっとみんなが元気になったので、灘Sはー太郎三人の例会も開催のめどが立ち、わたしはその煮リンゴでパウンドケーキを焼いて、袋に入れて持って行った。我々は多田を寿ぎ、紅茶で乾杯した。そしてはー太郎は、ひとりでその半分以上を平らげた。
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