歯医者さんとわたし
「今生えている乳歯が全部、虫歯になっています」
告げられて、母は危うく卒倒するところだったという。かかりつけの歯科の診察室でのことだった。わたしは当時五歳であった。自分の歯性が悪かったことの裏返しで、歯磨きにはうるさい母だった。うまいこと言ってスイミングはサボれても、歯磨きだけは毎日絶対にサボれなかったし、仕上げ磨きも母の手で間違いなく念入りに行われていた。だのに、それだのに。
わたしには心当たりがあった。当たり前だ。だってわたしの歯なのだから。
わたしはその頃、隙を見てはちょくちょく、カルピスを盗み飲みしていたのである。原液で。
うちには当時御用聞きの酒屋さんが定期的に出入りしていて、棚の中にはカルピスが常備されていた。当時の(いや今もあるのか?)希釈用カルピスは、ビール瓶と同じような茶色の瓶に詰められ、王冠の栓で封され、あのおなじみの青い水玉模様が印刷された化粧紙に包まれていた。初めにはその栓を抜いて、付属のプラスチックのキャップをはめるのだが、ここまでの作業さえ済んでいればあとは楽勝で、棚の前に椅子を持ってきて瓶を取り出し、中身をくすねるのは朝飯前だった。さすがにあまり大量に飲んだりすると早晩この悪事が露見すると思ったし、いくら好きでもやはりあの原液はそうそうたくさん飲めるものではない。だから摂取量としては、がぶがぶ、というほどではなかったはずだ。それでもカルピスのもつエナメル質破壊力は大したものだったらしい。
かくて泣き叫ぶわたしは先生と衛生士さんに押さえ込みを決められ、、全ての歯に真っ黒なフッ素加工を施され、五歳にしてオハグロになってしまった。平家の公達のごとく鉄漿黒なり。泣く泣く首をぞかいてんげる。ぎゃー殺さないで。
わたしがこの「カルピス盗飲」について家族にカミングアウトしたのは二十歳になってからであるが、母は絶句し、年子の兄も「そんなん知らんかった」と驚いていた。そらそうだ、ばれないようにやっていたのだから。余談ながら、わたしがその後かなり早い段階で甘いものを忌み嫌って口にしなくなったのは、あのときに一生分の甘味を摂取してしまったからなのではないかと思っている。
しかしながら、全乳歯虫歯という事実が発覚した当初に心配されたような永久歯への影響は全くなく、その後のわたしは家族の誰よりも歯並びが良く虫歯は少なく、高校入学以降二三度親知らずに悩まされたほかは、歯に関しては言うことなく過ごしてきた。
わたしは歯医者が大好きである。歯医者が嫌いな人というのはつまり歯医者で何かされてしまう人で、どこも悪いところのないわたしなどには、歯医者恐るにたらず、ということである。むしろ積極的に行きたいと思っている。何のためにかというと、歯茎マッサージが受けたいのだ。やってもらったことあります? グキマッサー。まだなんだったら今すぐにでも近所の歯医者さんに電話してやってもらった方がいい。頭全面にさぶいぼが立つくらい、それはそれは気持ちのいいことなのです。衛生士さんが、ラテックス製の手袋をはめた指先に、微かに薄荷の香りのするペーストを取り、その人差指と親指で歯茎を挟むようにして、小刻みに右から左へと揉んでいってくれるのである。などとこうして描写するだけでやはり頭皮がびりびり痺れてしまう。もはや、記憶を呼び起こすだけで気持ちいいのだ。うわあ、自分の顔は今相当ヒドい有様なのだろうなあ、とどうでもいい自意識が時折頭をもたげてくるが、衛生士さんはもうそんなの慣れっこなんだよ、仕事なんだよ、とそれをねじ伏せ、ただひたすら施術を楽しむのである。官能だな! つまり! はーい、うがいして下さーい、と終了を宣告されるときの切なさといったらない。その時は常に、終わりか、でもむっさ気持ちよかった、けど終わりかー、悲しい、あと五分何とかなりませんか、おかわり、という心境である。
歯茎マッサージに出会うまでは、自分がもしそこそこの富豪になったら専任のシャンプー係を雇う、と言ってきた。シャンプーさんを雇った上でまだいけそうなら足裏マッサージ師も呼ぶ、と言ってきた。しかし今は、専属の歯科衛生士が優先順位のトップに割り込んできたのだ。歯茎・髪の毛・足の裏。行っていいよと言われたら全身エステよりも断然歯茎マッサージに行きたい。前者は「美しくなる」という性的および社会的な意味合いにおける効果が大きく期待されるところだろうが、後者は生的、根本的な生きる力に直結していると考えてよかろう。歯茎が丈夫でなかったら歯だって駄目になる。歯が駄目になってしまったら、生き物としてはおしまいである。歯茎を揉んで、生きていくわたし。美しい姿ではないが、気にしない。
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