遠藤さんちのゴールデンウィーク


 子どもの頃、我が家のゴールデンウィークの行事は毎年二つあった。


 一つ目は伏見の藤森神社のお祭りに行くこと。大亀谷に住む母方の祖父母のところへ行き、流鏑馬で馬が走った後のぬかるみ道を参拝するのだった。この五月の例祭は数日間続くが、たいてい一日は雨である。その雨が、馬が走る前か後かによって、境内のぐちゃぐちゃ加減が全然違ってくる。わたしは六歳のとき、ここの屋台で買ってもらった兄とお揃いの水鉄砲に泥水を入れ、さらぴんの玩具を即日お釈迦にしたかどで大変な叱責を受けた。でも、わたしはただ、茶色の水が出るのもまた一興であろう、と思っただけなのである。自分の鉄砲が使えなくなったので、わたしは兄に借用を申し入れたが、兄は断固拒否した。まあ、気持ちは分かる。わたしは後日こっそり勝手に、兄の水鉄砲を使った。まだ茶色の水に対する執着は消えていなかったが、さすがに水道水で我慢した。お兄ちゃんのだからね!


 二つ目は、甲子園に行くことであった。甲子園に行って、一塁側で、デーゲームを見る。弁当持ちで。阪神電車で。





 梅田駅はすでに、正装した阪神ファンで混雑している。正装というのは言わずもがな阪神の選手ユニフォームのことで、我々兄妹は略礼装の帽子とTシャツだった。父は何故か、我々がどんなに頼んでもユニフォームだけは買ってくれず、後年この時の欲求不満が爆発する形で兄は数十枚の選手ユニフォームを揃えるに至る。物事には原因がある! わたしも二十歳かそこらで復刻版のユニフォームを購入し、刺繍屋さんに注文して背番号7とネームを入れてもらった。真弓である。





 毎年五月に甲子園へ足を運んだ1990年代は、いわゆる阪神の暗黒時代で、勝率はすこぶる悪かった。GW以外にも切符が手に入れば観戦に赴いたが、最も球場に行った91年、我々一家は十一戦のうち二回しか六甲おろしを歌えなかった。それでもわたしたちは阪神を見限ったりしなかった。そんなことは、考えたこともなかった。だいたい、なんで阪神が好きなのかを考えたことすらなかった。お父さんが応援してるから? いやちがう。もう、そういうものだと思っていたのだ。疑義を差し挟む余地もなく。盤石の前提として。不動の理として。「いい加減、きらいになりたい」。そういうシビアな悩みが生まれてくるのは、もっともっと大人になってからのことである。そして、「明日から広島ファンになる」といくら心に誓っても、そうは問屋が卸さないというのが人生なのだとある日漠然と気がつくのだ。多くの阪神ファンが通る道である。あまりにたくさんの人が通るので、けもの道などではなく、アスファルトの立派な舗装道路としてそれは存在する。





 わたしの父サトシは、わたしたち兄妹が物心ついた頃にはどこからどうみても立派な虎キ印だったが、実は高校一年生までなんとなんと読売ファンだったのである。わたしたちは長いこと、それを知らなかった。知ったときには驚いた。わたしは五年生くらいだっただろうか。昔お父さんはたちんぼの男娼だったのだ、と聞かされるような底知れない衝撃であった(まあ、そんなことばは知らなかったけどね)。


 父は言った。子どもは強いもんが好きやろ。お父さんは小さかった頃、長嶋が好きやったんや。


 なんてわかりやすい子どもだろう! いや、わかりやすいからこそ子ども、とも言えるのだが。


「じゃあ、なな、なんで阪神ファンになったん?!」


 わたしたちが口から泡を飛ばして問いただすと、父は答えた。


「おんなじクラスの大野君から、『巨人ファンは一生大人になれない』て言われたから」


 つまり、そういうことなのである。子どもは、大人になったのだ。勝てばいいのか? 勝つことだけが喜びなのか? シッダールタはきらびやかな服を、妻を子を、安寧の居城を捨て、四苦八苦の渦巻く世間と自らの人生に出て行った。そういうことだ。父は大野君に言われたことばを反芻し、約三か月ほどかかって見事に改宗したのだ。阪神は62年と64年とに二度、リーグ優勝を果たしている。サトシ少年は、しかし、このときに強い阪神に乗り換える、ということはしなかったのである。あくまで、大野君という導師あっての転向だったのだ。





 思うに阪神ファンというのは修行僧である。最近の、2000年からこっちにファンを始めた人はまた別だが、あの暗黒時代、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、他球団ファンからの嘲笑をうけながら、たまさか勝っては吐くまで祝杯を上げ宿酔になって次の日怒られる、といったことを繰り返してもまだ応援するという態度は、自ら艱難を求め、己を鍛えているとしか思われない。





 D.ルへインの『ミスティック・リバー』(早川書房)に、登場人物のデイヴがテレビで野球観戦をしているところを描いた場面がある。ホームチームが8-0で負けている。デイヴは試合の成り行きよりも、球場の観客たちに目を奪われ、その胸の内を思う。家族連れ。大枚をはたいて買った全員分のチケット。安っぽいベンチで食べるつまらないファストフード。






 勝ってくれ。おれのために。子供たちのために。おれの結婚生活のために。あんたたちの勝利を車に持ち帰り、さもなくば負け続けの人生に戻るまでのあいだ、家族と一緒にその栄光に浸らせてくれ。


 おれのために勝ってくれ。勝て。勝て。勝て。


 しかしチームが負けると、皆の希望は粉々に砕け散り、会衆と共有していた幻の一体感もともに潰える。チームは彼らを失望させ、頑張ってもうまくいかないのが普通であることをただただ思い出させる。希望を抱いても、希望は死に絶える。(加賀山卓朗訳)





 というような気持をほぼ毎日味わっていたのが暗黒期の阪神ファンなのである。もうそれは、誰が何と言おうと大人の中の大人。きみはそんなふうに、なりたいか。


(つづく)





(今、十名以上がつづかなくていい、と思ったね)

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