生かされるわたし
くどいようだが、わたしは日ごろから注意力に欠け、物忘れが激しく、クリアファイルを踏んで滑るというどうしようもない人材である。まったくもって、今日まで無事に生きてこられたことが不思議である。あまつさえ子どもまで授かった。「わたしたちは生きているのではない、生かされているのだ」というようなことばを、宗教や哲学、自然科学、あるいはなんしか「アリガタ系」方面の文物で見たり聞いたりするが、我と我が身をかえりみればかえりみるほどこんなに痛切事実な謂いは、ないのであった。なんというか、掛け値なしに、その通りなのだ。
そうして毎日、寝る時なんぞに、ああ、今日も家族揃ってご飯食べた、布団もぬくい、ありがてーなー、と思うので、改めて「オマエの不満を言うてみよ」と問われたりしても、まあ日々の生活の局面局面で腹の立つことや不服なことがはないではないが、しかしながらそれとて布団に入る段になれば結局「ありがてーな」というひとことで流されてしまうため、眉間に深さ5ミリの掘割が常設されている、というようなこともなく、まずは息災で暮していると言えるのである。
去年息子の保育園を通して、乳幼児の健康問題を調査しているある研究機関からアンケートの依頼があった。A4の茶封筒を開けると、研究の概要、目的、その意義が述べられた用紙と、「研究への協力は自由」「拒否した場合もお宅のお子が不利益を被ることはない」という意味のことが再三明言された個人情報の保護に関する説明書き、そして合計三冊のアンケート冊子が入っていた。三冊。その内訳は、一冊が子ども自身についての、就寝時間や食事といった日ごろの習慣にかかわるもの。そしてあとの二冊は両親について、つまり父親母親が各一冊ずつ答えるもので、親の方のQOL値というのか、幸福度というのか、父母それぞれの生活態度や精神状態を調べ、ひいてはその家庭の雰囲気を知る目的なのだと思うが、家事の分担状況から性生活に至るまで、プライベートな部分に相当つっこんだ設問が並んでいた。父親用も母親用も、表紙の色以外中身の質問事項はおなじだった。
項目が多くかなり面倒臭そうではあったが、謝礼に目がくらんだわたしは早速夫に藤色の表紙の父親分を押し付け、回答を開始した。
質問の内容は、回答と一緒になっていたため提出してしまってもう手元になく、うろ覚えなのだけれども、「配偶者は育児に協力的ですか」とか、「性交渉の有無はあなたにとって重要ですか」とか、そんな感じだったと思う。
回答はほぼ全ての設問において、例えば「強くそう思う」「ややそう思う」「ややそう思わない」「全くそう思わない」「どちらとも言えない」、あるいは「大変重要」「やや重要」「それほど重要ではない」「まったく重要でない」「わからない」といった具合に五段階のうち一番近いものを選べ、という形式だった。
「ほぼ全て」と言ったのは、最後の二問だけが自由作文形式だったからである。
先の一問は、「あなたが今不満に思っていること、不自由を感じていることなどを書いてください」というものだった。
わたしは考えた。不満か。自主出版した電子書籍が売れない、という一文が太字で脳裏に浮かんだ。しかしながら、しつこいようだがわたしのような本来どうかすると風が吹いただけで死ぬレベルの人間が今この瞬間もまだ生きている、ということ自体が奇跡なのである。本は売れない。だがそれがどうした。その時その時でハラワタが煮えくりかえるようなこともあるにはあるが、どのような不平不満も布団に入って目を瞑れば「すげえ、今日も死ななかった」という事実の驚異によって根本から解体されてしまうのだ。今のところは。
わたしは、五行ほどのスペースがとられた回答欄に、「毎日三度三度のご飯を食べられて、家族も健康で、お陰様で思い当たるようなことがありません」と書き込んだ。
気持ち悪い。
これでは何らかの理由で嘘をついているか、怪しい宗教に入っているかのどちらかだと思われるだろう。しかし、ボールペンで書いてしまったため、消去することも出来ない。修正テープを重ねるのも、マッキーで塗りつぶすのも一層不気味である。
仕方ないのでそれはそのままにして最後の質問に進む。「(前項をふまえ)あなたが希望を感じること、あなたの力になることは何ですか」
「申し上げた通り、日々これと言った不満もなく結構に暮らしております。それというのも、困ったことがあるときには幸い夫にも、同居する夫の両親にも相談でき、仲の良い友人も近くにいて絶えず交流があり、実家の両親もどうにか健在であればこそです。強いて言えば、それすべてがわたしの力になってくれます」
完全にいかれている。異常な多幸感が逆に病的である。オマエはポリアンナか?
ふと見ると、夫も何やらうんうん唸っている。
一言断って、覗いてみた。
不満に思っていること。「虫歯になりやすいこと」
希望を感じること。「それでも親子丼がおいしいこと」
わたしの夫はいたって真面目な人間で、断じてふざけているのではないのである。
でも、これを提出したら、うちの子は不利益を被るんではないか、と真剣に不安になった。
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